淀川長治さんのものまねから、一世を風靡した「しらけ鳥音頭」に「電線音頭」。誰でも知っている数々のギャグを生み出したコメディアン・俳優の小松政夫さんが11日、肝細胞がんで7日に亡くなっていたことがわかった。78歳だった。
故人をしのび、週刊朝日別冊『ハレやか』(2020年6月号)に語ってくれた、コメディアンとなったきっかけから、師匠、植木等さんとの思い出や、いまの生活などについての生前のインタビューを掲載する。
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「知らない! 知らない! 知らない! もー」「あんたはエライ!」「悪りーね、悪りーね、ワリーネ・デイートリヒ」。これ、みんな私のギャグです(笑い)。あるラジオ番組で調べてくれたんですけど、私が世に送り出した流行り言葉は60以上あるそうです。
もう何十年も前なのに、たくさんの人が「覚えてますよ」「子どものころマネしてましたよ」と、今でも覚えていてくれるのはうれしいですね。
コメディー俳優になりたくて博多から上京したのは19歳の時。兄が住んでいた横浜の独身寮に転がり込んで、いくつか劇団を受験しました。ところが入学金と月謝があまりに高額だったので断念しました。生活費も稼がなければいけなかったので、ケーキ屋とかお花屋、ハンコ屋、コピー機のセールスなどいろんな仕事をしました。
お調子者で話がうまかったおかげで(笑い)、自動車のセールスでは、トップの売り上げ。大卒のサラリーマンの初任給が1万5千円くらいの時代に、私は10万円以上の給料をもらっていました。今でいえば100万円以上。
コメディー俳優の夢は完全に捨てたわけではないのですが、セールスは儲かるし自分にも向いてるし「このままでもいいかな」なんて思うこともありました。
そんな時です。いつものように、行きつけのビアホールで飲んでいると、他のお客さんが忘れていった週刊誌を見つけました。パラパラめくると、「植木等の付き人兼運転手募集! やる気があるんだったら面倒みるヨ~」って広告が載っていたんです。本を持つ手がプルプル震えましたね。「このチャンスを逃すわけにはいかない!」と応募しました。