前方のスクリーンに海岸沿い大きな松の林が映し出され、その上を津波が越えてくる。
「仙台空港の近くです。この集落にも社員の家がありましたが、津波で流されました」
画面が切り替わる。工場の東、海辺にある閖上(ゆりあげ)地区を小さな丘の上から見渡すように写している。立ち並んでいた住宅のほぼすべてが押し流され、基礎部分だけが残っている。説明もなく、誰も何も言わず、ただじっと画面を見つめた。
■最優先課題だったFマウントの生産再開
そして、震災直後の工場内。あらゆる種類の部品が床に散乱し、そのなかに無残にも調整用の機器が倒れ込んでいる。それがもっとも被害が大きかったカメラの組み立て工程の現場だった。バヨネットマウント(Fマウント)の加工機の上にあったクレーンも落下。何トンもある電装工程用の設備も滑り動いた。
「でも、あれだけいろいろなものが倒れて、天井の一部も落ちましたが、工場内では一人のけが人も出なかったんです」
仙台ニコンは1978年の宮城県沖地震などを教訓に、地震発生を揺れの前に知らせる警報システムを導入。避難訓練も行ってきた。建屋をかなり補強したことも幸いしたという。
地震発生から3日後の3月14日、斎藤二郎社長(当時)が出社してきた従業員にハンドマイクで呼びかけ、工場の復旧活動が始まった。
最優先課題はカメラボディーと交換レンズを結合するバヨネットマウントの生産再開だった。この部品の供給がストップしてしまうと、仙台ニコン以外のカメラ、レンズ工場の生産も止まってしまう。幸運にもマウント加工機に落下したクレーンを引き上げると、機械の破損は軽微だった。
精密な測定機器を調整するにはかなりの時間を要するのがふつうだが、必死の努力が実り、同月28日には一部の生産ラインを再開することができたという。
■熟練が要求されるファインダーの調整、シャッターユニットの組み立て
会議室での説明の後、ニコンD800の「総組み工程」に案内された。そこには見学用に設けられたスペースがあり、クリーンルーム内でカメラが組み立てられていく様子を窓越しに見ることができた。全長80メートルほどの細長い形の部屋で、その奥ではD4が作られていた。