まさか三島さんの死の直前に二つの「心中事件」(笑)が計画されているとは。だからフィクションの方は結局ひとりで死んだ三島さんは、当初の計画が失敗に終ってしまったのです。もし、僕が死を演じた写真を撮っていると、生き残った僕はピエロです(笑)。僕の運命が僕に病を与え、この三島さんの計画をぶち壊してくれたのです。三島さんがなぜフィクションの世界で僕を道づれの相手役に選んだかは不明です。
死を目前に三島さんはとんでもない芸術行為を計画したのです。セトウチさん、どう思われますか。この三島さんの虚実一体化計画を。篠山さんも僕もこのことは50年間封印していて、今、やっとパンドラの函の蓋(ふた)を開けました。「男の死」の限定大型写真集のビジュアルを担当することで、僕は三島さんにかろうじて礼節を保ち得たかと思います。それにしても最後の最後にこんなスキャンダラスな仕掛けを計画した三島さんは一体何者でしょう。
■瀬戸内寂聴「1カ月余 三島さんの霊につきまとわれ」
ヨコオさん
三島由紀夫さん没後50年ということで、おおせの通り、新聞、雑誌、テレビ、映画、単行本、写真集と、メディアは三島特集に熱狂して、大騒ぎです。実はかく云(い)う私もどのメディアにも負けないくらい、50年前の三島さんの想(おもい)い出に熱中して、身も心も浮き上がっていました。今から考えると、寂庵の廊下で、真夜中に転んで、頭と顔正面に大けがをして、何週間も入院してしまったことも、三島さんの亡霊に心が浮かされて、アホになっていたせいかと思われます。舞台のお岩さんに之繞(しんにゅう)をかけたようなひどい状態になったのですから、只事(ただごと)ではなかったのですよ。
でも今心が落ち着いて考えて見ると、すべては三島さんの亡霊が面白がって、「ちょっとセトウチさんをつきとばしてやろう。ぼくの没後50年だというのに、九十八にもなって呆(ぼ)けてしまって、想い出ひとつ書きもしないで、ナマイキじゃないか」──くらいに思って、真夜中に私を突き飛ばしたのかもしれないな、と、今では至極納得しています。それくらいのイタヅラは、やりかねないのが三島さんです。