石原裕次郎が「自分の撮りたい映画を撮る」目的で創設し、渡哲也が志を受け継いだ石原プロモーションが2021年1月16日、58年の歴史に幕を閉じる。週刊朝日ムック「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」(税込み1650円)では、間近で二人に接してきた俳優・舘ひろしに今の思いを聞いた。その一部を紹介する。
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――1979年、舘さんは、ドラマ「西部警察」で渡さんと出会った。舘さんはバイクチーム「クールス」を経て、不良性感度の高い東映映画に出演。自身の道を模索していた若手俳優を、褒めて導いてくれたのが渡さんだった。
渡と初めて出会ったのは「西部警察」の制作発表記者会見当日でした。その前に「近くの喫茶店で先に会いたい」と言われたんです。約束の時間よりも早めに行くと、渡はすでに到着していて、パッと立ち上がり、「舘くんですね、渡です」と握手をしてくれました。遠巻きに見るたたずまいのかっこよさも含めて、こんな紳士的な“スターさん”もいるんだなぁと驚きました。でも、僕にだけじゃないんですね。現場でも常に周囲をおもんぱかる優しさがあって、自然と一体感が生まれていました。僕も「お館(やかた)」と慕うようになって。何があってもこの人といれば大丈夫、そんな気がしましたね。
渡はいつも僕に自信を与えてくれるんです。「ひろし、お前には華がある」と言われたときは、すごくうれしかった。主演映画を数本やった後でしたけど、俳優としての自信はまったくありませんでしたから。「お前は笑ったほうがいい。笑顔がいいから笑え」ともよく言われました。それまではひねくれた不良でしたから、あまり笑わなかったんですけど(笑)。
――83年、「西部警察PART-II」の放送中、渡さんの背中を追って、石原プロに入社する。
「西部警察」の地方ロケの最中に、小林(正彦)専務から「石原プロに入れ」と言われたんです。僕はもう、渡と一緒にいられるならどんな形でもいいという心境でした。それで渡に相談すると「その話は俺が預かった。お前はもうコマサ(小林専務)と話すな」と言われました。そこから渡が条件交渉をしてくれたんでしょうね。石原プロは、石原裕次郎と渡哲也の仕事に関する一切のことを小林専務が直でやっていましたが、他の所属俳優は芸能部という部署がやっていました。だけど、「ひろしも自分と同じようにコマサが直接やるように」と。「その条件だったら俺はひろしに石原プロに来いと言える」と言ってくれたんです。正式に入社が決まって石原邸にごあいさつに行ったとき、社長を待ってる間にゆうママ(まき子夫人)が「おめでとう」と言って桜湯を出してくれたことは忘れられないですね。