慶長16(1611)年、日本にイスパニア(スペイン)使節団が現れた。使節団を率いたのは、セバスティアン・ビスカイノ(1548~1615)という探検家で、重要人物に次々と会っている。
6月22日(太陽暦)に江戸で2代将軍徳川秀忠、2日後に伊達政宗、さらに7月4日には駿府(静岡)の大御所、家康に謁見(えっけん)した。
ビスカイノは東日本の太平洋沿岸を測量することを望み、朱印状が秋になって交付された。ビスカイノは仙台で政宗と再会し、食料や馬、さらには案内の舟2艘(そう)をつけてもらう。11月16日に塩釜を出航した。東北学院大学名誉教授で、『歴史としての東日本大震災』(刀水書房)の著者のひとり、岩本由輝(よしてる)さん(75)はいう。
「家康を皇帝、秀忠を皇太子とし、政宗を『奥州の国王』で、実力のある男だとビスカイノは見ていますね。彼らの船は巨大で、当時も黒船と呼ばれています。黒船が使える港を探し、塩釜から北上し、沿岸の測量をした。ビスカイノは、日本の東方海上にあるという『金銀島』の探索を命じられていましたが、彼自身はその存在を信じていなかったようです」
金銀島どころではなかった。12月2日に陸奥の越喜来(おきらい)村(現・岩手県大船渡市三陸町)の沖合で「慶長三陸地震」の津波に遭遇している。
越喜来村の人たちは、黒船を見ようと沿岸部に集まっていたらしい。だが、黒船が岸に近づいたとき、村人たちはいっせいに山のほうへ走り去った。
「ビスカイノははじめ、自分たちが外国人なので逃げたと勘違いしますが、すぐに村人たちが津波を見て逃げたことに気づきます。三陸では地震があったらそれぞれが高いところに逃げろという『津波てんでんこ』という教えがあった。その姿をビスカイノは目撃し、一時は海にのみ込まれることも覚悟しています」(岩本さん)
かろうじて黒船は無事だった。もっとも政宗が随行させた2艘の舟は沖で沈没している。
※週刊朝日 2013年3月29日号