「あの頃は『これまではサッカーをしながら、お金をもらっていたんだ。今は、サッカーを続けるためにお金を稼いでいるんだ』と。それに耐えられない選手は、そもそも、そこまでサッカーを続けませんでした」
当時を知る関係者は、そう振り返る。数あるマイナースポーツ同様に、技術、体力をレベルアップするのと同じか、あるいはそれ以上に、生活環境を確保する能力も問われる時代だった。
日本女子代表が「なでしこジャパン」と呼ばれるようになったのは、2004年の初夏。アテネオリンピック出場権を賭けたアジア予選・北朝鮮戦に快勝し、世間に強く存在をアピールした。その勢いに乗って、第1次なでしこブームが来た。2005年には、年間を通しての全国リーグが復活した。
なでしこリーグの愛称が付けられて以降は、急上昇したチームもあれば、以前とそれほど変わらないチーム、乱気流に巻き込まれたチームに分かれた。さいたまレイナスFCは、周囲の応援を力に変えて、地元国体とリーグ戦で優勝するなどの結果を残して躍進。浦和レッドダイヤモンズレディースに移管されて、現在へ至るベースを作った。また、日中の練習や積極的な戦力補強で力をつけたINAC神戸レオネッサは、なでしこジャパンが優勝した追い風に乗り、ピーク時には、ピッチ外の副収入と合わせて年収が1,000万円に届く選手もいた。
一方で、リーグ全体が苦境に覆われる中、選手を正社員待遇で雇用してきたTASAKIペルーレFCや、東京電力女子サッカー部マリーゼは、選手の進路として人気があったが、母体企業の経営状態悪化で姿を消した。また、なでしこリーグの1部チームにも、学校など近隣の施設を借りながら、毎日、別のグラウンドでトレーニングをしていたところもあるし、試合に間に合う時間ギリギリまで仕事をする選手もいた。
それでも、移動費を持ち出すケースはなくなっていったし、100人前後に低迷していた観客数が4ケタに達し(女子ワールドカップ優勝直後などは、5ケタの試合もあった)、選手を含めて関係者のモチベーションは上がった。選手全員とのプロ、セミプロ契約するチームは少なかったが、主力選手数人とプロ契約や、選手のコンディションを最優先で考慮してくれる受け入れ先企業も増えた。