1989年、Jリーグに先駆けて、日本女子サッカーリーグは、華々しいスタートを切った。企業チーム主体で構成された実業団リーグの色彩が強かった。選手の多くは、母体企業の社員として雇用され、「午前中に働き、午後は練習」「シーズン中はサッカーに専念し、オフシーズンに社業を手伝う」選手も多かった。その環境によって、外国人トッププレーヤーたちも、日本のピッチを選んだ。
しかし、1990年代後半から日本経済が後退を始める。それとともに、L・リーグの勢いは急激に減速していく。最初の衝撃が走ったのは1998年。1996年からリーグのトップを走り続け、この年も前・後期(当時は前・後期制度が採用されていた)を制した日興証券女子サッカー部ドリームレディースが、3連覇を達成したにも関わらず、廃部となる。後期2位の鈴与清水FCラブリーレディース(他にフジタサッカークラブ・マーキュリー、シロキFCセレーナ)ら3チームも同様にリーグを去った。
1999年、アメリカで行われた第3回FIFA女子サッカー選手権(現在のFIFA女子ワールドカップ)で、日本女子代表がグループリーグ敗退を喫し、2000年のシドニーオリンピック出場権を失い、このシーズンもリーグを脱退するチームが出た。リーグへの残留を決めたチームのスタッフ、選手を取り巻く環境も、悪化していく。
アウェーゲームの遠征は、スポンサー企業からもらえる潤沢な運営資金を原資にして、飛行機、新幹線に試合会場まで観光バスを使用するチームが多かったが、これを全行程のバスやレンタカーへ切り替えるチームも出てきた。ホテルでとっていた夕食が、ファミリーレストランで上限金額を決めて各自でとりはじめたチームはまだいいほうで、遠征費すべてがスタッフ、選手の自己負担になったチームもある。
移動車両やガソリン代、ホテル代などを他の選手と等分に負担して遠征に参加し、試合当日の朝、先発、ベンチ入りメンバーに自分の名前がない。そんな選手も、そこから先はチームのためにできることを探した。