——今も人々の心を捉え続ける尾崎豊がこの世を去ったのは、1992年4月25日。享年26、裕哉が2歳の時だった。5歳で母とともに渡米、15歳まで過ごした。
尾崎:米国にいたから距離を持って父を見られたと思います。日本にいたら誰もが父親を知っている。ある意味異常です。ただの一人の少年でいられたという意味では、米国で過ごせてすごく良かった。小学生でみんなから父親のことを言われ続けるようなことがあったら、違う人生になっていたかもしれません。
——好きな音楽は尾崎豊はもちろん、もともとAC/DCやレッド・ツェッペリンなどクラシックロックが大好き。ミュージシャンの名前を挙げればキリがないが、「アメリカ文学に触れたこと」も裕哉の音楽に影響を与えたと言う。
尾崎:サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』やポール・オースターの『ムーン・パレス』。また、米国の歴史のほとんどに黒人差別の問題が絡んできますが、僕が住んでいた1990年代は日本人に対する差別もあった。道を通れば「ジャップ」と言われることもあって、黒人差別の問題で闘うマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉にも影響を受けました。僕の最初の2枚のEPは彼の言葉から取っています。米国での学びが自分のアイデンティティーになったのは良かったと思っています。
■父との接点は楽曲
——伝説の父を背負う裕哉だが、2世であることに気負いはない。
尾崎:2世は2世ですから(笑)。父が生きていたらプレッシャーを感じたと思います。でも、亡くなっているから、尾崎豊の曲を聴いたり記事を読んだりライブの映像を見たりすることが、父との唯一の接点でした。その接点が楽曲、エンタメなんです。だから、曲を聴きながら「カッコいいな」と思ってしまうし、強いメッセージが込められていると、「裕哉、こうした方がいいよ」と自分が言われているような気がする。その結果、自分も音楽をやってみたいと、父の曲をカバーするようになりました。10歳から歌い始めたので、自分の歌の3倍くらい歌っています(笑)。