2軍では大活躍した西武のポール(OP写真通信社)
2軍では大活躍した西武のポール(OP写真通信社)

 2軍で“無双”と呼ぶにふさわしいダントツの成績を挙げた助っ人といえば、真っ先にコーリー・ポールの名が挙がる。

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 1999年6月、西武の第4の助っ人として獲得期限ギリギリに緊急入団。これには次のような事情があった。

 この年の西武は、主砲のドミンゴ・マルティネスを「守れない」という理由で解雇し、守れる内野手のアーキー・シアンフロッコと大砲候補のグレッグ・ブロッサ―を獲得したが、揃って打撃不振。緊急補強で5月に来日した第3の助っ人、アラン・ジンターも、デビュー戦で満塁弾を放ったものの、以後じり貧となり、6月には打率を1割台まで落としてしまう。

 主軸を期待された助っ人勢が3人ともこのていたらくでは、スーパー・ルーキー・松坂大輔の援護もままならない。そんな切羽詰まった事情から、メジャー経験はないが、台湾・台北太陽で6月まで10本塁打を記録したポールにお呼びがかかったというしだい。

 6月25日のダイエー戦(西武ドーム)、6番レフトでスタメン出場したポールは、2回に永井智浩から史上39人目の初打席初本塁打の鮮烈デビュー。同年は59試合に出場し、打率2割5分7厘、12本塁打、29打点と、そこそこの成績を残した。

 ところが、翌00年、現役メジャーのトニー・フェルナンデスとレジー・ジェファーソンが入団すると、ポールは外国人枠から押し出され、開幕から不遇の2軍暮らしが続く。ジェファーソンの不振やフェルナンデスの故障時にチャンスを得たものの、1軍出場47試合にとどまった。

 そのうっ憤を晴らすかのように、ポールは2軍で打率3割5分3厘、21本塁打、69打点と格の違いを見せ、77年の庄司智久(巨人)以来、史上2人目のイースタン三冠王に輝いた。

 シーズン後、フェルナンデスはメジャー復帰、ジェファーソンは自由契約となり、日本にも慣れた3年目こそ、いよいよチャンス到来と思われたが、皮肉なことに、待っていたのは、さらなる不運だった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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