プロレスとボクシング。猪木とモハメド・アリ。交わるはずのない両雄が相まみえた「格闘技世界一決定戦」(1976年)のプロモートに関わった興行師の康(こう)芳夫さん(85)は、猪木さんの魅力を「いい意味でホラ吹きのところ。僕と一緒で悪い意味もありますが(笑)」と懐かしそうに語る。
アリの日本での初の世界戦実現に尽力した(72年)ほか、作家・石原慎太郎氏が率いた「国際ネッシー探検隊」(73年)や、人とチンパンジーの混血という触れ込みの「オリバー君」来日(76年)といった世間をにぎわすイベントを数々手がけてきた康さん。
「アリと戦いたい」と猪木さんに相談され、「冗談かと思いました。でも『本気だ』と。強さを証明し、プロレスの社会的な地位を高めたいという決意を感じました」。
猪木さんの試合資料を送り、熱意を伝えるとアリ陣営もようやく前向きに。だがほとんどのプロレス技を封じられるルールをのまされ、猪木さんが寝転がったまま蹴りを繰り返す試合展開が不興を買った。
「プロレスとボクシングはケンカとスポーツ、囲碁と将棋のようなもの。ケンカなら猪木君が有利だけど、ボクシングだったら猪木君も高校生チャンピオンになれるかどうか。かみ合うわけがないし、つまらない展開になるのはやむを得ない」
それでも、アリの拳を受けた猪木さんの意識が飛びかけ、足に大きなダメージを負ったアリも帰国後に入院。両者は真剣だったと証言する。
「一家でブラジルに渡り、力道山にスカウトされてプロレスの世界に飛び込んだ猪木君は『一発当ててやろう』という野心にあふれていた。アリと戦ったことでアリとの友情も生まれたし、ずいぶん得をしたと思う」
(本誌・池田正史)
※週刊朝日 2023年1月6-13日合併号