近年、若い世代のタレントたちが次々と頭角を現し、新時代到来を予感させている日本サッカー界。だが、未来は不透明であり、スポーツの世界では何も約束はされてはいない。いつの時代も早熟のまま表舞台から去る選手は世界中にあふれており、日本においても若くしてA代表デビューを飾りながらも伸び悩み、苦難のキャリアを過ごすことになった選手たちは数多くいる。
Jリーグ発足以前、日本の未来を背負う男と言われた選手に、菊原志郎がいる。読売サッカークラブ(現・東京V)の「天才少年」として注目を集め、16歳で日本サッカーリーグに出場。柔らかいボールタッチと優れたサッカーセンスでラモス瑠偉や戸塚哲也らと黄金の中盤を築き、その活躍が認められて1990年に弱冠20歳で日本代表入りして計5試合に出場した。だが、J発足後は出番を失い、1994年に浦和に移籍するも怪我にも泣かされて活躍できず。日本代表にも呼ばれることなく27歳で現役から退いた。技術面は非常に優れていたが、体の線の細さに代表されるフィジカル面が改善されなかった。
もう一人、Jリーグ創世記の天才が、山田隆裕だ。快速ドリブルを武器に超高校級と騒がれ、今も“史上最強”と呼ばれる伝説の清水商高のエースとして活躍。日産(現・横浜FM)入団後も早々に結果を残し、 1992年に20歳でオフト時代の日本代表に選出された。だが、メンタル面が追い付かず、1994年のW杯最終予選への参加を辞退。その後もしばらくは代表の招集リストには入っていたが、国際Aマッチに出場したのは1994年の1試合のみ。クラブレベルでは、横浜から京都、V川崎、仙台と渡り歩いた中でJ1通算224試合に出場したが、代表デビューをした当時に周囲が思い描いていた未来とは、大きく異なるものになった。
その後も多くの逸材たちが日本代表のユニフォームに袖を通したが、その中で歴代5位の若さでA代表デビューを飾ったのが、山田直輝だった。U-15時代から世代別代表に常に名を連ね、「浦和レッズユースの最高傑作」と称された秀英MF。2009年、トップ昇格1年目から結果を残して岡田武史監督率いる日本代表に招集され、5月27日のキリン杯・チリ戦に18歳327日でA代表デビューを果たすと、試合終了間際に本田圭佑のA代表初得点をアシストして見せた。