下重暁子・作家
下重暁子・作家
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※写真はイメージです (GettyImages)
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「五輪は中止しかない?」。

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 この期に及んでまだ決まらない。いや決められない。オリンピック・パラリンピックの開催である。

 あと二カ月足らずになって盛り上がりもなく、コロナに追われ、誰もが疑いを持っている。ほんとうにやるのだろうか、やれるのだろうか。

 国民の六〇%ほどは、中止を望んでいるというのに。出場予定のアスリートに関しては、この際触れない。彼らはともかくそれを目ざして練習するしかないからだ。

 緊急事態宣言下にいる私たち国民にとっては、ともかく命を守るのが先だ。ワクチン接種を受けようと、朝から電話にかじりつき、おぼつかない手つきでパソコンやスマホを操作している高齢者の姿を見て関係者は何も感じないのか。

 今は、生きるためにみな必死なのだ。営業は八時までで酒の提供もできず、店を閉め、テイクアウトだけを頼りに働く人々。その姿はオリンピックというお祭り騒ぎとはほど遠い。ましてコロナで入院中だったり、その人たちを治療する医療従事者たちは、オリンピックとはかけ離れた存在だ。

 おまけにアメリカが日本への渡航中止の勧告を出し警戒レベルを4にまで引き上げた。

 それでいてアメリカのオリ・パラ委員会は「選手の安全な参加には自信を持っている」と言っている。どう解釈すればいいのか。

 もし五輪が行われるとして、選手や関係者だけの参加とは何と淋しいことだろう。日本人観客の入場を一部認めたとしても、どこかしらけてしまう。果たして観客を巻き込めない競技大会を五輪と呼ぶことができるのだろうか。

「緊急事態宣言下でも五輪を開催する」とし、「犠牲を払わなければならない」とまで言ったバッハ会長をはじめとするIOCの発言にも心もとなさを感じる。

 そんな中でなぜ五輪をどうしてもやるというのか。やらなければならないのか。

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