崔洋一監督
崔洋一監督
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「月はどっちに出ている」や「血と骨」で知られる映画監督の崔洋一さんが11月27日、膀胱がんで73歳の生涯を閉じた。今年1月にがん闘病を公表したが、6月まで日本映画監督協会の理事長を務めるなど、対外的な活動を続けてきた。

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 5~6月に対談した映画評論家の樋口尚文さんは「対談は12時間にも及びましたが、終始お元気そうでした。実現まで『早い方がいい』と何度も言っていたので、体調はあまり良くないのだろうと感じてはいました。ですが、対談中の姿を見てこれなら大丈夫だろうと安心していました」と突然の訃報に驚きを隠さない。

 最後の対面は7月。場所は樋口さんが営むシェア型書店「の本棚」だった。崔監督の希望で棚を作ったが、ついに蔵書が並ぶことはなかった。

「心待ちにしていたのですが、惜しまれます」

樋口尚文さん
樋口尚文さん

 1949年、長野県佐久市で在日コリアン2世として生まれた。大島渚監督の「愛のコリーダ」で助監督を務め、83年に「十階のモスキート」で監督デビュー。「月はどっちに出ている」でそれまでとは異なる在日像を描いた。現場では厳しく、“鉄拳”を飛ばすことも辞さない強面なイメージで語られることもあった崔さん。だが、プライベートでは全く異なる顔も見せていたという。

 樋口さんが崔さんと初めて会ったのは25年ほど前、大島氏の自宅で毎年開かれていた新年会の席だった。「私の息子や大島監督のお孫さんと楽しそうにチャンバラごっこをしていました。一歩外に出ると、丁寧にお話なさるし、周りに気を使う方でした。思わずギャップ萌えしましたね」

 崔さんの死を樋口さんはどう捉えているのか。

「消費されて忘れ去られていくような『おとなしい映画』は作らなかった監督でした。『マークスの山』では崔さんらしさが弾けていて、最高傑作だと思います。いまの映画業界はコンプライアンス対策などで自ら首を絞めている状態。なので、崔さんのような“やんちゃな人”がいなくなってしまうのは寂しいです」

 “昭和のおやじ”がまた一人、この世を去った。だが彼が残した作品は、今なお色褪せない。

(構成 本誌・唐澤俊介)

※週刊朝日オリジナル記事