1年以上かけて企画が練られ、2年前──19年1月に、原田さんは、とある温泉宿で開催された、山田組の脚本合宿のようなものに呼ばれた。山田組のスタッフがズラリと並ぶ前で、「山田洋次監督による、原田マハインタビュー」が始まった。
「『どうしてあなたのお父さんとお母さんは別れなかったの?』とか、父のことで、質問攻めにあいました。御年87の監督に一生懸命インタビューされて、それまで無二の親友にも家族にも話さなかったことを全部話してしまった(笑)」
脚本の第1稿ができたとき、原田さんはパリにいた。文藝春秋の編集者からは、「内容は全く変わっています」とのコメントが添えられていた。
「昭和の懐かしい映画作りの熱気、いろんな思い出話が詰まっていて、脚本を読みながら、脳裏には、次々に映像が浮かんできた。音楽も耳の奥に鳴っているような気がして、自然と涙が流れました。戯曲を読んで泣いたことも生まれて初めてで。『この見事な変更を心から歓迎します』と返信しました」
原田さんの目から見た山田洋次監督は、「ただただ映画が好きで、映画のことばかり考えている人」なのだそうだ。
「映画のことを考えることは、つまり人間のことを考えることなんです。人間のことを考え、映画のことを考え、人間を愛し、映画を愛する。『キネマの神様』も、原作を踏襲して新しい話を作っていただいたことに、私はとても感動しました。それにこれは、山田洋次監督ご自身の物語でもあります。沢田研二さん演じるゴウは、かつて映画監督を目指していた。その設定は、原作にはないものですが、一番大切なテーマである家族愛と映画愛、その二つが全くブレずに、物語としてちゃんとつながっていた。日本映画に対するリスペクトとオマージュもありますし、100年の歴史のある松竹と山田洋次監督でなければ実現できなかったことばかりです」
原田さんは、この映画の中に、未曽有の厄災にも屈しない映画の強さ、芸術の強さを見たという。