エッセイスト 小島慶子
エッセイスト 小島慶子
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アスリートたちがプレーする姿に胸を打たれる。感動のスイッチは純粋で素朴なものだ (c)朝日新聞社
アスリートたちがプレーする姿に胸を打たれる。感動のスイッチは純粋で素朴なものだ (c)朝日新聞社

 タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。

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「多くの人に感動を与えてください! 期待してます!」「大きな感動をありがとう!」。よく聞くフレーズです。実は私、これがあまり好きではありません。だって感動は、もらうものではなくて勝手にするものだから。どうしようもなく湧いてきてしまうものですよね。自分でも理由がよくわからないこともあります。

「感動をありがとう」に感じる違和感は、“感動”という快楽を得ることが目的化していることが窺(うかが)えるからかもしれません。例えば音楽なら、その歌が好きだから聴く。映画なら面白そうだから見る。スポーツもそうですね。応援したいとか楽しみたいという気持ちで見て、結果として感動する。心底感動すると、ただただ称賛と敬意で胸がいっぱいになります。「あー気持ちよくしてもらった」とは思いませんよね。「感動をありがとう!」という決まり文句には、気持ちよくしてもらいたいという欲求が強く出ているから、聞いていてなんだかゾワッとするのかも。

 今は報道番組をつけても、ニュースサイトを開いても、必ずオリンピックの映像や記事が目に入ります。ほんの短いダイジェストで、よく知らない競技の初めて見る選手の演技に思わず涙してしまったり、ルールを全く知らないのになんだかジーンとしてしまうことも。その度に、感動のスイッチはどこにあるのか自分でもよくわからないなあと思います。

 大きな重圧の中で競技に集中するアスリートの姿には自然と敬意が湧いてきます。人間の持つ普遍的な尊さを感じ取るから、初めて見た競技でも胸打たれるのでしょうね。実況やナレーション、スタジオトークなどが“感動”を煽る感じだと、辟易(へきえき)してしまいます。まるで感動のドーピングみたい。

 素直じゃないと言われても、今年の夏は特に、そんな気持ちを一層強く感じます。

小島慶子(こじま・けいこ)/エッセイスト。1972年生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『幸せな結婚』(新潮社)。『仕事と子育てが大変すぎてリアルに泣いているママたちへ!』(日経BP社)が発売中

AERA 2021年8月9日号