いまから30年近く前。現在の藤井のように全冠を制覇する勢いだった羽生は、信じられないような勝負手、妙手、鬼手を連発。それらの指し手は「マジック」と呼ばれるようになった。幸運にもリアルタイムで目の当たりにできた人たちは、それは感動しただろう。
時代がくだって本局。羽生が常識外の金を打つのを、事前に誰も予想できていなかったかというと、実はそうではない。かつてと現在との違いは、あまりに強くなったコンピューター将棋ソフトの存在にある。ソフトが示す形勢判断と最善手順を参照するのが、現代における観戦スタイルだ。
羽生の金打ちは何手も前の段階から、最善手として示されていた。ではソフトの登場によって、観戦時のサプライズ感が薄れたかといえば、そうともいえない。対局者はもちろん対局中、ソフトに頼ることなく、自分の力で考え抜く。そうして観戦者が固唾をのんで見守る中、対局者が最善手を指せば、その技量の高さは明確となり、やはり感動は生まれる。羽生や藤井の対局では、そうしたことが多い。
羽生が金打ちの妙手を放ち、1日目にしてややペースをにぎったかにも見えたが、藤井が大きく崩れたわけでもない。2日目に入っても途中まで、ほぼ互角の戦いが続いた。
74手目を前にして、藤井は考え続ける。攻めるか、あるいは受けるか。藤井は1時間25分を使ったあと、羽生陣に銀を打ち込んで、激しく攻めかかった。結果的には、この判断が藤井にとっては敗着となったようだ。とはいえ、羽生が一手でもミスをすれば、たちまち羽生玉は詰まされてしまう。この藤井の攻めを完全に受け止められる対局者は、そう多くはないだろう。
「なんかちょっと受け間違うとすぐ負けそうな局面なんで。かなり慎重に考えて指していたんですけど。どの変化もギリギリと思ってやってました」(羽生)
ソフトはきわどい受けの最善手を示し続ける。それを羽生が指す。藤井がまた厳しく迫る。羽生はやはり最善の受けで返す。緊迫したやり取りを、羽生はノーミスで乗り切った。全国から羽生ファンの大歓声が聞こえそうな中、羽生はゴールへと近づいていく。