かと思うと、三島由紀夫さんのように夢を見ないという人もいます。三島さんは自分には無意識がないといいます。フロイト的に解釈すれば、無意識のない三島さんが夢を見ないのは当然ということになります。そういえば三島さんの「豊饒の海」で夢を見る青年の話がありますが、如何にも夢を見たことのない三島さんの小説です。夢は理不尽で、非論理的ですが三島さんの小説の夢は辻つまのあった実に論理的な夢です。フロイトの論理をそのまま絵に描いたような夢です。
夢の魅力はそのデタラメさです。フロイトを肯定的に考えれば、無意識はデタラメな性質を持っているということになりますかね。時には物凄く真面目な人がいます。頭はいいんでしょうが、ちっとも面白くない人です。つまりデタラメさの欠如した人です。全てデタラメでも困るんですが、人間は生きていく上でデタラメさがないと生きにくいように思います。芸術の魅力はそのデタラメさです。真面目な芸術など全く魅力がありません。芸術家はその人格の背後にデタラメな精神を必要とします。ということは、ここでデタラメな夢の性格と芸術は一致するのです。無意識と一致するかどうかはフロイト先生に聞いて下さい。
僕の昔の夢はデタラメそのものでした。このデタラメな夢が実は7年間も続いたのです。ところが、画家に転向すると同時にデタラメな夢に終止符が打たれ、その後、今日まで、日常の延長とちっとも変わらない夢ばかりになってしまいました。冒頭に紹介した鮎川さんとドライブする夢だって、あれをそのまま書けば普通のエッセイになります。どこにもデタラメさがないでしょう。フロイト先生なら「あれがお前の無意識の願望だよ」ということになるんでしょうかね。僕の無意識が鮎川さんと山中をドライブしたがっており、森の中で会った男が僕に50年前の僕と変わらない若さであると言う──。そりゃ、いつまでも若くいたいという願望を夢の中の男に語らせたのだとフロイト先生ならそう言って、「そーらごらん、君の願望通りの夢だろう。しかも森の中を流れる小川や、そばや、出現した男は、君の性的欲求が顕在化しているんだよ」とそれこそデタラメな夢判断をされるかもわからない。
あらあら、理屈ってヤですね。生きにくいですね。僕の夢のデタラメは現在、絵のデタラメの中に移植して生きています。そう思うことで、昔のデタラメだった時代の夢をノスタルジックに回顧しているんでしょうかね。知らんけど。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2022年12月2日号