「97年に彼がエルメスで挑戦したのは究極のスタンダード。ブランドの神髄を探り、ケリーバッグやバーキンに匹敵するような服をデザインした」と栗野。
黒やベージュの抑えた色み。シンプルで優美なロングスカートやレザーのコートは冒頭のライナーも魅了された美しさだ。だが、当時のファッションジャーナリストからは「こんなに普通でいいの?」と酷評された。
栗野は「いまエルメスに残る彼のデザインは、二重巻きベルトの時計と、革製のキーケース型ネックレスだけかもしれない。これはファッション業界のシステムが抱える問題でもあります」という。
常に変化と新しさが求められるファッション業界。新作発表に追われ、デザイナーは疲弊していく。SNSの登場で社会のスピードはより加速した。そんな状況からマルジェラは「降りる」ことを決めたのだ。
引退後も彼のブランドは続き、2015年からはジョン・ガリアーノがクリエイティブディレクターに就任。ブランド名は「メゾン マルジェラ」に変わった。Tabiブーツなど継承されているものもあり、精神はリスペクトされているが異なる創作だと、栗野は言う。
「ファッションでやるべきことをやり尽くし、ある『解』にたどり着いた。愛があるからこそ、離れたのでしょう」
そしていま人々の感覚はマルジェラに近づいている。行き過ぎた資本主義が生んだひずみや、深刻な環境破壊が表面化。「そんなに多くのものは必要ない」と皆が気づき始めたのだ。
■商業主義をリセット
「『これを買わないと遅れる!』というこれまでの脅迫的なファッションシステムは、もうリセットしたほうがいい。マルジェラはいち早くそれに気付いていた」と栗野が喝破する。
ファッション界ではコレクションの回数を減らすなど、スローダウンに向けた動きもあるそうだ。ライナーもいう。
「いま世界は余剰とファストファッションの時代。物が多すぎて、作り手も『何を作ったらいいのか』を考えあぐねている。マルジェラの『少量のものでも、クリエーティブは可能だ』という考え方はとても今日的だ。そして彼のデザインは数年で変わる流行ではなく、長い年月残っていくもの。彼のやったことは『商業主義がすべてではない』という声明でもあるんだ」
コロナ禍のいま、マルジェラの服と思想は「大切なもの」に気づかせてくれる。
(敬称略)(フリーランス記者・中村千晶)
※AERA 2021年9月20日号