湘南ベルマーレの眞壁潔会長(右)と河野氏。画像を一部加工しています(画像=眞壁氏提供)
湘南ベルマーレの眞壁潔会長(右)と河野氏。画像を一部加工しています(画像=眞壁氏提供)


 河野氏から眞壁氏にベルマーレ再建について協力を求める声があったのは、1999年10月上旬だという。それはあまりにも突然の電話だった。


「ここが彼が奇人、変人と言われるところだと思うんですけど、私は仕事で香港にいたんですが、夕方頃、日本から電話がかかってきたんです。何だろうと思ったら、甲高い声で『太郎です』と言うわけですよ。彼は電話で『川淵三郎チェアマン(当時)が、ベルマーレの存続を心配してくださっているけど、存続なら10月末までに決められないと、来年のカレンダーの調整ができないし、放映権も進まないと言われている。残り3週間しかない。川淵さんには、今日、平塚市長、商工会議所会頭と相談して代表は受けるけど、私一人じゃやり切れないから眞壁と一緒にやりますと答えた』と勝手に話を始めたのです」


 一方的に電話でまくしたてられた眞壁氏はあぜんとした。


「そんな大事なこと、先に私に相談するのが普通でしょう。完全に事後報告なんだもの。時間もないし、引き受けることにしたけど、太郎は『明日、帰国する?』とせかすんです。『今日着いたばかりで仕事がある。これから中国の厦門(あもい)にも行くので帰国は4日後になる』と断ると、太郎はしぶしぶ『しょうがない、待ちます』と言ってたけどね。私には笑い話だけど、初めての人はカチンと来るかもしれない。彼は根回しとかあんまり好きじゃないんですね。その代わり、スピード感を持って、やると決めたらどこまでも行動する人なんです」


 経済的に逼迫していたこともあり、クラブ再建には時間が限られていた。当然、対外的な交渉もハードなになるが、そこでは河野氏の“熱さ”が発揮されていたという。


「太郎はフジタの幹部とも、よく大声で言い合いになっていた。太郎としては、フジタ側は経営を放り出して撤退するんだから、社員は1人もいらないと言う。それに対して、フジタ側は『経験者を何人か置いていった方がいいだろう』という主張。太郎は『いや、いりません』とガンとして受けつけないから、フジタ側も『そうですか、1人もいらないんですか。けっこうです』とやりあっていたわけなんです。結局、私が意思のある人との面接をセットして、太郎の前で残りたい社員たち一人一人に思いを語ってもらったら、太郎はこの人もあの人も必要だと言って結構な人数を残しました」

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「中東にもヨーロッパにも人脈がある」