混戦模様の自民党総裁選だが、世論調査で国民からの支持が高いのは河野太郎行政改革担当相(58)だ。【前編 河野太郎の旧友が語る「歌いっぷり」から「夫婦秘話」まで 新総裁本命候補が地元で見せた素顔】では幼少期~社会人になるまでの河野氏の人物像に迫ったが、今回は政治家になって以降の人生を追った。地元での振る舞いを知る人たちからは、永田町で語られる河野氏の印象とはまた違った一面が語られた。
【写真】秀才っぽさを漂わせて机に向かう小学生の頃の河野氏はこちら
* * *
河野氏が初めて衆院選に立候補したのは1996年。それまでの中選挙区制に代わり、小選挙区比例代表並立制が導入された最初の衆院選だった。選挙制度の変更により、父親の洋平氏の選挙区が分割されたため、河野氏は神奈川15区から自民党公認で立候補し、見事に当選。33歳のときだった。
河野氏が政治家になる前から交流がある平塚市の片倉章博市議は、初出馬までの経緯をこう振り返る。
「河野が31歳くらいの時、平塚青年会議所(平塚JC)に入って来たんです。ちょうど(富士ゼロックスから)日本端子に転職した後くらいです。私はすでに平塚JCに入っていましたが、同じ年齢だし、前から知っていたこともあって、より深くつきあうようになった。この平塚JCで知り合った仲間たちが、河野の選挙の支持基盤になったんです」
河野氏とは30年来の付き合いだという平塚商工会議所の常磐卓嗣会頭は、若き日の河野氏の姿をこう話す。
「地元の食事会にも顔を出して、当選1期目の時からみんなの前で『将来は総理を目指す』と言っていました。河野さんはお酒を全く飲まず、だいたいはウーロン茶なんですけど、七夕祭りとか地元のイベントにもよく顔を出していました。女性から人気も高かったですね」
河野氏は祖父、父と3代続く政界のサラブレッドゆえに、選挙では先代から受け継いだ「地盤・看板」の力も大きかっただろう。だが、河野氏自らも地元では人脈作りに励み、選挙の基盤を作っていたようだ。片倉氏が続ける。
「彼が2期目くらいの時、車の中で『河野、大臣だったら何になりたいのよ』と聞いたら『やるなら外務大臣をやりたい』と言っていましたね。2009年に自民党が下野した後も、シャドウ・キャビネットで行政改革・公務員制度改革担当大臣としてがんばっていた。でも、われわれは河野を応援しているから、いつ本当の大臣になれるのかと思っているわけですよ。2015年10月に行革担当大臣に選ばれる直前くらいかな、河野と2人で『核のごみ』について議論したことがあります。私は『脱原発を封印しろとは思わない、でも、大臣になるなら、ちゃんと説明できなきゃダメだ』と言うと、彼は『何で』と聞いてくるわけです。だから私は『これからの日本でエネルギーがなければ産業は進展しない。閣外からほえているのと、国務大臣になるのとではわけが違う』という話をしました。その後、彼はブログから脱原発に関する記述を消したんです。本気になったと思いました」