2017年の小三治師匠 (c)朝日新聞社
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 江戸落語の大看板、落語家として3人目の人間国宝、柳家小三治師匠が亡くなった。享年81。その芸は飄々として緻密。円熟を極め恬淡(ていたん)の域にしてなおにじむ人情味に多くのファンが魅了された。あの「まくら」は、もう聞けない。

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「噺家(はなしか)は噺家らしくしなきゃいけない、といういわれ方をされるのがすごくいやだったね」

 生前、柳家小三治師匠は、よくぼやいた。ことに「噺家は酒が飲めなければ一人前じゃない」といわれるのがいやで、落語会の打ち上げと称して酒席にしつこく誘われるのが何よりの苦痛だった。

 高座の後は、考えることは多く、クールダウンに時間がかかる。一刻も早くひとりになって、内省したい。あるいは、厳しい批評家でもある親しいプロデューサーと語り尽くす。いずれにしても、自分に満点をつけることはめったになくて、反省してばかりだというのが、いつものことだった。

「何事にも迎合することを嫌い、派手を好まず、極めて芸人らしからぬ、孤高の噺家でした」

 落語家柳家小三治さんが10月7日に心不全で亡くなったことを発表した、落語協会会長の柳亭市馬師匠は、故人の人となりをこう語ったが、その通りの人柄だった。

 柳家小三治、本名・郡山剛蔵さんは、1939年、東京に生まれた。書道の分野で大きな功績を残した教育者であった父は、家での躾も厳しく、箸の上げ下げ、下駄の脱ぎ方、風呂の入り方など日常の所作にうるさく、母親は、テストは百点が当たり前といい、つねに完璧であることを強いた。

「それが親としてのかわいがり方だったのかもしれないけど、子どものほうは、完璧じゃない人間なんて用がない、自分はだめな人間なんだと思っちゃう。こんな育てられ方をされたから、反発して、噺家になっちゃったんですよ」

 あるとき、功成り名遂げたいまになっても、まだそのころ抱いた親へのわだかまりを引きずっているんですか、と聞くと、

「そう。わたしはずっといじけている。被害妄想が強いんですよ。七面倒臭え性格なんだ」

 と、あっさり認めた。

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