1969年、真打ち昇進披露(右から桂文楽、三遊亭円生、小三治、柳家小さん、林家正蔵) (c)朝日新聞社
1969年、真打ち昇進披露(右から桂文楽、三遊亭円生、小三治、柳家小さん、林家正蔵) (c)朝日新聞社

 噺家の修業ほど厳しいものはないといわれる。しかし、家での躾のほうがはるかに厳しかったので、苦にはならなかった。むしろ、家の呪縛を逃れて、この修業の果てには噺家の道が開けていると思うと、希望に輝いた。

 とはいえ、師匠の下駄の手入れや紺足袋の洗濯には神経をつかった。「こんなことが噺家になるのに何の役に立つんだ」とぼやいたこともあった。

「だけど、そういう一つひとつに細かい神経をつかって、足袋や下駄をきれいにしていくことが、噺を組み立てて自分のものにしていくことにつながるんです。噺ってのは、ただ昔から伝わってきたものを、そのまんま覚えて演じればいいってもんじゃない。自分なりに発想や構成を変えながら、自分に合うように作っていくものだからね」

 69年9月、17人抜きの抜擢で真打ち昇進。翌年、やはり大抜擢で真打ちに昇進した九代目入船亭扇橋さんを師匠として俳句をならい、互いの芸を評価し、生涯の親友となった。

 古今亭志ん朝さんとは、世間からはライバル視され、反目し合っているように思われていたが、お互いの芸風を尊重し合う、やはり親友だった。

「なんで二人会をやらないの。みんな待ち望んでいるのに」とファンや興行主からよく聞かれることがあった。そのたびに志ん朝夫人は、「二人とも似ているから」と答えたそうだ。小三治さんは、「落語は面白くやろうとしてやるもんじゃない、と、二人とも考えが一致していた。やっぱり似ていたんだ」といった。

 やはりライバルといわれた立川談志さんについては、天才と認めていた。だが、国会議員になった彼の権力志向とは、なじまないものを感じていたようだ。

 落語で人気の出た小三治師匠は、映画界から誘いを受けたこともあった。

 加山雄三さんの人気が沸騰していたころのことで、加山雄三に次ぐスターがほしい、と探していた映画会社が、小三治師匠に白羽の矢を立てたのだ。もともと演劇に興味があったので、心は動いたが、おれは噺家なのだと、踏みとどまったのだ。

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