島田紳助(左)と西川のりお(C)朝日新聞社
島田紳助(左)と西川のりお(C)朝日新聞社

 山村さんのキャラクターが受けたこともあり、「ひょうきん族」にとっては欠かせない存在になっていく。 

 「ひょうきん族」がレギュラー化した第1回の放送の視聴率は13・4%、それに対して「全員集合」は29・7%と圧倒的に水を開けられていたが、1983年に入ると、「ひょうきん族」と「全員集合」の視聴率が拮抗。ついに、83年9月18日の放送で、「ひょうきん族」が「全員集合」に視聴率で抜いたのだった。そして、84年以降は「ひょうきん族」が勝つことが多くなる。 

 視聴率が上昇すると、山村さんが担当していた「ひょうきんベストテン」のコーナーも変わって行く。初期の頃は芸人が本物の歌手に扮してパロディーで歌っていたが、だんだんと本物の歌手が登場するようになっていった。 

  山村さんも、全国からファンレターが届いたり、街を歩いていても、指を差されるようになった。いつの間にか、アイドル的な扱いになった。 

 「あれは北海道だったかな、地方へ行き、コマーシャルを撮ったこともありました。何故、社員なのにコマーシャルに出演するのかなぁ、と疑問に思いながらも出演した思い出があります」 

 フジテレビのキャンペーンガールをするようになり、山村さんのポスターが作成され、イベントのサイン会まで開かれた。ドラマにも女優として出演し、ついには歌手としてデビュー。 

 83年2月、キャニオン・レコードからシングルレコード「ビー・スマイリング」を発売した。 

「当時はまだCDがなかったから、EPレコードでした」 と山村さん。

「ひょうきんベストテン」はリクエストハガキに基づき、10位から順に発表していったが、「ビー・スマイリング」が1位に輝いたことがある。 

 1位になった放送では、山村さんが自分で「おめでとうございまーす」とはしゃぐと、紳助は「なんやねん、こら、経費節約か、おまえ。しらじらしいやないけ。 ヨーロッパ行って1週間休んで帰って来たと思ったらいきなり1位」と突っ込みを入れる。 

 山村さんは「いえ、これはですね、ファンのみなさまのリクエストの数がホントに今だに多いんです」と返す。紳助は「何がリクエストハガキや。(山村さんの出身の)三重県の組織票やないか、まあええから、歌てきや」と紹介し、山村さんが美声で歌ったのだった。 

 「芳村真理さん司会の『夜のヒットスタジオ』にも出演して、歌ったこともあるんですよ」 

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