保阪正康(ほさか・まさやす)/1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学卒業。最新刊は2・26事件の蹶起趣意書から天皇退位の「おことば」まで、様々な「檄文」をとりあげた『「檄文」の日本近現代史』(朝日新書)
保阪正康(ほさか・まさやす)/1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学卒業。最新刊は2・26事件の蹶起趣意書から天皇退位の「おことば」まで、様々な「檄文」をとりあげた『「檄文」の日本近現代史』(朝日新書)

原:永井荷風も昭和初期の井の頭線の風景を絶賛していますし、あの時期はどの線に乗っても東京の西側では武蔵野らしい風景が広がっていたんだと思います。

保阪:軍人に興味を持って調べていたときに、将官は四谷や市谷に家を建てるが、佐官になると新宿や千駄ケ谷、代々木、尉官になると高円寺とか、階級と家を構える場所の関係が名簿を見ればわかると言っていた人がいます。中央線を例にとれば、高円寺とか阿佐ケ谷は課長あたりが住むような感じかな。

原:荻窪にある近衛文麿の荻外荘は、別荘のつもりだったのが結局本宅になったんです。

保阪:あの周りは畑だらけだったのでしょう。

原:関東大震災の後、東京の人口が西のほうに膨らんでいきます。それまで渋谷も池袋も郡だったのが1932(昭和7)年の大東京市の成立で、今の23区がほぼ東京市になる。それまで中央線の新宿から西側はほとんどが郡でした。

保阪:本書に収録されている「九州での激越な戦勝祈願の意味」では、1945(昭和20)年7月に宇佐神宮(大分県宇佐市の八幡総本宮)と香椎宮(福岡市)へ、皇室祭祀を担当する掌典の清水谷公揖が昭和天皇の代役として祭文を読み上げるために遣わされたということが紹介されています。戦争末期に危険を冒してまで遠い九州に行ったのはなぜでしょう。母親の皇太后節子(貞明皇后)の影響でしょう。

原:それは無視できなかったのだと思います。それまでの昭和天皇の行動パターンでは行くなら伊勢神宮ですが、宇佐神宮と香椎宮でなければいけない理由があったからでしょう。祭神が関わってくると思います。

保阪:宇佐神宮と香椎宮は応神天皇(5世紀初頭ごろの第15代天皇)と神功皇后をまつっています。

原:皇太后節子は、かつて神功皇后が応神天皇を懐妊したまま朝鮮半島まで行き、戦争に勝って帰ってきたといういわゆる「三韓征伐」を事実と信じていました。

保阪:そういう歴史観を持っていた母親に対する親孝行という側面があったのでしょうか。昭和天皇は皇太后と会った後、風邪をひいて休んだりしますよね。

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