瀬戸内寂聴さん(撮影/写真部・東川哲也)
瀬戸内寂聴さん(撮影/写真部・東川哲也)
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 99年の生涯の中で、多くの人と交流した瀬戸内寂聴さん。世間からたたかれている人も、自分と意見が違う人も、懐深く心を開き受け入れた。そんな寂聴さんの姿を心に刻む人たちに、ありし日の思い出を聞いた。

【写真】これは貴重!剃髪前の若かりしころの瀬戸内さんの一枚

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「みんなの味方が、亡くなった」

 瀬戸内寂聴さんの訃報が流れた11月11日、親交のあった黒柳徹子さんはこのようなコメントを発表した。

 みんなの味方。それは瀬戸内寂聴さんの生き方そのものだった。傷ついた人に手を差し伸べ、世間からどれほど批判を受けても見放すことはなかった。そんな生き方は、自らの過去から生まれたものだった。

 20歳で結婚したが、5年後に夫の教え子と恋に落ち、3歳の娘を置いて家を出た。

 小説家を目指し、1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受賞。だが、その後に発表した「花芯」が大胆な性愛の描写で物議を醸し、一時は不遇を味わった。51歳で出家するまでに、2度の不倫も経験した。寂聴さんと20年以上の付き合いがあった小説家の平野啓一郎さんは、こう話す。

平野啓一郎さん
平野啓一郎さん

「瀬戸内さんは、多くの人に愛されましたが、自分に向けられる批判もよく知っていました。支持する人もいるけど、悪く言う人もいる。浮世の面白さとやるせなさを、文学者として、仏教者として、よく知っていました。自由に生きた分、いろいろな苦労をされて、自分が人を傷つけてきたという自覚もありました。特に、幼いお子様を置いて家を出たことについては、ずっと後悔されていました」

 寂聴さんは、京都大在学中に芥川賞を受賞した平野さんの作品を高く評価し、新作が出るといつも励ましの連絡をしていたという。

「大学卒業後しばらくは京都に住んでいたので、京都で有名な料亭や祇園には一通り瀬戸内さんに連れていってもらいました。仏教徒としてはよくないのでしょうが、お酒も肉もよく召し上がりました。『私は破戒僧だけど、自分が一番守れそうにない淫戒だけは守ろうと決めて、実際守ってきた』と笑ってらっしゃいましたね。コロナの影響で最近は電話でしかお話できず、20年以上にわたる感謝を伝える機会がないまま亡くなられてしまったのが残念です」

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