「高津さんは小池秀郎さんに次ぐ2番手投手だったが負けないくらいの結果を残していた。球速は135キロくらいしか出なかったがコントロールが正確。正直、一番最初に受けた時は球が遅いと思った。でもそのうちにコントロールの正確さに鳥肌が立った。大袈裟ではなく狙った場所に来る。これなら抑えられるのは当然と納得した」
「最初は高低、内外角とミットをアバウトに構えていた。そのうち『1球ごとにしっかりとミットを固定してくれ』と言われた。その後に『1~2球同じコースに決まったらボール半分、2~3cmくらい動かしてくれ』とも言われた。当時からコントロールという自分の強みを熟知し磨き続けていた。僕のキャッチング技術も見透かされていたんでしょうね。選手の細かい部分を見る目がすごいと感じた」
当時の亜細亜大のレベルは高かった。エース左腕の小池はリーグ通算63試合に登板して28勝14敗、防御率1.45をマークし、4年秋のドラフトでは8球団から指名された。2番手だった高津監督もリーグ通算40試合に登板して11勝15敗、防御率2.34、140奪三振という堂々たる数字を残しドラフト3位でヤクルトに入団。またのちに阪神で活躍する川尻哲郎も投手陣の同期に名を連ねていた。
高津監督のプロ入り後の活躍は知りつつ連絡は途絶えていた。永井氏は社会人・NKK福山でプレーを続けたがプロ入りは叶わず渡米してニューヨーク・メッツでブルペン捕手の職に就く。この時メッツ在籍していた吉井理人(現ロッテ投手コーチ)を介して再び高津監督と話す機会に恵まれた。帰国後、浜松大(現・常葉大)野球部監督を務めていた12年に高津監督が現役を引退。その際には野球部在籍当時の4年生から1年が集い慰労会を開いた。
「吉井さんがニューヨークから連絡してくれた。2人はヤクルトのチームメイトで仲が良かった。『おお、元気か? ニューヨークなんて行ってたのか?』と昔の先輩のままだった。慰労会は新宿の普通の居酒屋でしたが喜んで来てくれた。時間が経っているのに30人近く集まったのも高津さんだったから。大学当時のくだらない話で盛り上がった」