作家・室井佑月氏は、表現の自由についてどこまで自粛が必要なのか、物書きの立場から考える。
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瀬戸内寂聴さんが亡くなった。とても寂しい。あたしは瀬戸内晴美さんの時代の彼女の本から読んでいたし、テレビの仕事で彼女とご一緒したこともあった。世の中や人間を愛しているチャーミングな方だった。
寂聴さんの訃報(ふほう)を知って、彼女の作品を読みたくなって、でも引っ越し先に本を持ってきておらず、なんでもいいから彼女の足跡を、と探したのがまずかったのかもしれない。
たまたまSNSで流れてきたある方のツイッターを読んでしまった。
その方は去年、寂聴さんが書いた「不倫でもいいから恋愛すべき」という記事の中の「愛した人が一人もいないなんて生まれてこない方がいい」という一節に、アセクシュアル(他者に対して性的欲求や恋愛感情を抱かないセクシュアリティーのこと)という立場から抗議を送ったそうだ。そしたら、寂聴さんがその抗議を納得し、記事からその文を削除したそうだ。それは寂聴さんに対する美談なのだと思う。
が、物を書いているあたしがちょっと怖くなったのも事実。表現ということにおいて、どこまで自粛しなければいけないのか。
たとえば、寂聴さんの書いた記事において「不倫でもいいから恋愛すべき」というのだって、パートナーの不倫で苦しんでいる人間にとっては、嫌な言葉なのかもしれない。
少し前、芸能人の不倫に対しものすごく怒ってる友人がいて、芸能人が出ていたテレビなどにもクレームをつけたといっていた。そんなのは辛いので「やめてほしい」と告げたら、なぜ一緒に不倫をとがめないのかと喧嘩になったことがある。
もうその友人とはそれきりになってしまったので、そのときにどうしてもいえなかったことがある。いわなかったこと。
それはその友人も知ってるまた別の友人が、婚外恋愛で生まれているってこと。その友人のお母さんは女一人で友人を育て、とても立派な愛すべき人だった。友人も人の痛みがわかる優しい人間だ。