父の仕事で子ども時代を米国で過ごした朝日さんは80年、小学4年のときに帰国。年上のいとこからクイーンのライブ盤を借りて聴き、夢中になった。

「でも80年代になってクイーンの人気は落ち込み、私の周りにはファンなんていなかった。音楽雑誌にも載らなくなっていた」(朝日さん)

 75年に初来日したクイーンは、長髪で痩身、中性的で美しいルックスもあいまって、それまでロックと縁のなかった少女たちから絶大な支持を獲得。洋楽ロックの世界を席巻した。

 当時筆者は(すでに解散していた)ビートルズ好きの北海道の中学生。キャッチーでノリのいいハードロックと「キラー・クイーン」「ボヘミアン・ラプソディ」の素晴らしさに仰天した。アルバム「オペラ座の夜」は新時代の「サージェント・ペパー」のようだった。ロック以外のさまざまな要素を取り込む創作法もビートルズと似ていた。

80年代前半の活動を紹介するコーナー。82年発売のアルバム「ホット・スペース」は全米トップ20に入れず苦戦した(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)
80年代前半の活動を紹介するコーナー。82年発売のアルバム「ホット・スペース」は全米トップ20に入れず苦戦した(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)

舞台芸術と自己演出

 だが全身にぴったり張り付いたタイツに身を包み、怖いもの見たさの女子をドキドキさせるようなフレディのパフォーマンスは、ロックの華麗さと猥雑ぶりが満開。田舎の男子学生をひるませた。

 80年代になると短髪にひげ、「ハードゲイ風のファッション」が彼の定番となり、「遠い存在」と正直感じた。

 80年にクイーンの楽曲にほれ込み、ファンになった朝日さんにとっては、ファッションより曲こそが重要だった。

「80年代、フレディの姿は嘲笑の的だった。でもそれはいい。ゲイファッションが欧米のロック界で流行、彼は戦略としてその波に乗ったんです。70年代の中性的な衣装もそう。彼は舞台芸術と自己演出に関心と才能があった」「でも、80年代の彼らの素晴らしい音楽まで馬鹿にされるのが不思議で、とても腹が立ちました」

86年のマジック・ツアーで披露されたフレディの衣装。深紅のヴェルヴェットに毛皮がついたゴージャスなマントに王冠
86年のマジック・ツアーで披露されたフレディの衣装。深紅のヴェルヴェットに毛皮がついたゴージャスなマントに王冠

寄り添ってくれる歌

 85年5月、中学3年の朝日さんはオリジナルメンバー最後のクイーン日本公演に行った。2カ月後のライブ・エイドではテレビの前にかじりつき、クイーンの「伝説のチャンピオン」の途中でCMになり激怒した。

 91年11月24日、フレディ死す。朝日さんは大学生だった。生前最後のアルバム「イニュエンドウ」を聴けなくなった。正気を保てなくなる気がしたからだ。2018年に映画「ボヘミアン・ラプソディ」公開。見て平静でいられなかった。クイーンはいまも生々しい存在なのだった。

暮らしとモノ班 for promotion
プチプラなのに高見えする腕時計〝チプカシ〟ことチープカシオおすすめ20本
次のページ