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 作家・長薗安浩さんの「ベスト・レコメンド」。今回は、『イリノイ遠景近景』(藤本和子、ちくま文庫 990円・税込み)を取り上げる。

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 リチャード・ブローティガンなどの名訳で知られる藤本和子は、聞き書きの名手でもある。『塩を食う女たち』と『ブルースだってただの唄』がその代表作なのだが、この9月に文庫化されたエッセイ集『イリノイ遠景近景』でも、彼女の魅力はたっぷり堪能できる。

 アメリカ・イリノイ州でトウモロコシ畑に囲まれて暮らすようになった藤本は、近場のドーナツ屋でいつも野球帽をかぶっている男たちの会話を、YMCAのジャクジでは年配の女たちの声を、盗み聞きする。これが実に生々しく、彼らが英語で話していることを忘れて笑ってしまう。肉声が聞こえてくるのだ。そして、しばらく読み進めてから、はたと藤本の聞く力と翻訳の凄味に感じ入る。

 ワシントンの葬儀館、女性ホームレス用の緊急シェルター、6月のベルリン、ニューメキシコ州にあるラマ・ナヴァホ保留地……どこにいても、誰を相手にしても藤本の聞き書きは冴え、軽快で的確な描写もあって、産地直送のようにいろんな人々の容姿や声がこちらに届く。遠景でも近景でも、そこに彼女の目と耳があれば、登場人物の個が鮮やかに浮かんでくる。

 個々には個々の顔があり、声があり、現実がある。至極当然のことながら、このように他者を受け入れるのは難しい。私たちはつい半端な知識や体験に基づく先入観で他者を解釈し、理解したつもりになるからだ。藤本の聞き書きが、高齢者たちの世間話すら生き生きとさせるのは、彼女が他者の異質性を尊重しているからだろう。その姿勢は自身にも向けられ、彼女ならではの思想を研いでいく。

 単行本刊行から28年、藤本の魅力はまったく色褪せない。

週刊朝日  2022年11月11日号