「ダブルフォルトの予言」は、老後の生活の目途が立ち、30年続けた洋品店を店じまいした女性が主人公だ。ある日、自転車に乗っていて交通事故に遭う。その結果、受け取ることになった保険金と、帝国劇場での『レ・ミゼラブル』の全79公演のチケット代が同じだと気づいて、全公演を観に行くことに決める。

 劇場から出てきた人々の雰囲気はどことなく違う。「たった今、劇場から出てきた人か、そうでない人か、簡単に見分けがついた。彼らは一様に高揚し、足取りは軽やかで、目に力強さがあった」。そうした人々の一員になれたら、と思ったのだ。公演に通い始めると、劇場に住んでいるという不思議な女性から声を掛けられ、知り合いになる。こまやかな描写が空想的な次元の場面を支え、読後感にリアルな感触を生み出す。

「無限ヤモリ」の「私」は、温泉保養地の保養所に滞在する。温泉街を散歩するが、土産物屋は活気がなく、廃業した旅館がそこかしこに取り残されている。すっかり廃墟と化した芝居小屋がある。「舞台にはもう、お芝居の道具は何一つ残されていなかった。幕は破れ果て、照明はすべて取り外され、大道具の名残らしいベニヤ板にはひびが入っていた。しかしなぜか、どんなにぼろぼろになってもまだ、舞台にはお芝居をしていた頃の気配が残っていた」。

 この箇所は、まさにこの短編集全体を表しているようだ。かつてあったものや、そこにいた人たちが消えても、気配は残るのだ。気配と呼ぶほかないものが確かに漂う。それは失われた時間を伝える。舞台は記憶であり、記憶は舞台だ。本書のタイトルは、その奥深さをそっと告げている。

週刊朝日  2022年11月11日号