(写真=家老芳美)
(写真=家老芳美)

「柄澤さんのことは、妹のように感じていました。せっかくの資格を生かしてほしかったんです」

 2人は「帰りに寄ってみたら?」と近所にあったクオール薬局を勧めた。小川の家に一番近い薬局がクオールだったのだ。ママ友たちに背中を押され、柄澤は新しい未来の扉を開けた。

 恩地ゆかり(59、クオールホールディングス株式会社取締役)は、もともと病院の薬剤師だったが、創業と同時に入社し、ちどり店の薬局長だった。柄澤が訪ねてきた日をよく覚えている。

「募集してませんか?と、突然来たんです。してなかったのですが、あまりに素敵な雰囲気だったので、お話を伺いますと言いました」

 気さくで明るい笑顔が印象的だった。すぐに週3日からのパート採用を決めると、接客が抜群にうまく、勉強を惜しまない努力家だった。

 当時のクオールは創業から4年目を迎えた社員30人ほどの規模だった。国の強い方針で医薬分業が急速に進んでいた。92年に薬剤師が医療の担い手であることが医療法に明記され、97年には37の国立病院に処方箋(せん)は調剤薬局に出すよう国が指導。調剤薬局が新しい産業になると経済界から期待され、介護や配食といったケア産業と連携する調剤薬局など、消費者の利便性やサービスの向上が調剤薬局に求められる時代の幕開けだった。

 医薬分業によって、薬剤師にはこれまで以上に患者ケアが求められるようになっていた。柄澤が病院勤めの時は、医師の処方通りに薬を集め、袋にまとめて「はい」と患者に渡してきた仕事が、患者の薬歴を確認し、不安に答え、薬を一つひとつ広げ説明するコミュニケーションが必要とされた。それは柄澤の最も得意とするものでもあった。

娘は獣医に、息子は薬剤師になった。出会いがあり50歳で再婚した。自宅のテラスには柄澤が育てているバラの鉢が並ぶ。柄澤が育て守ってきたものに、今、柄澤自身が優しく守られている(写真=家老芳美)
娘は獣医に、息子は薬剤師になった。出会いがあり50歳で再婚した。自宅のテラスには柄澤が育てているバラの鉢が並ぶ。柄澤が育て守ってきたものに、今、柄澤自身が優しく守られている(写真=家老芳美)

 正社員になったのは37歳、きっかけは離婚だ。「パパとは一緒に暮らさない」と告げると幼い息子は大泣きしたが、「不幸になるわけじゃないよ」と心で誓った。それこそが手に職を持つ強みだろう。恩地はすぐに社長との面接を用意した。社員100人未満で、家族的な社風のなか、中村は親身に給与について聞いたという。具体的な数字が思いうかばず、「おまかせします」と答えたが、シングルマザーとして安心できる十分な給与だった。

(文・北原みのり

※記事の続きはAERA 2021年12月20日号でご覧いただけます。

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