もともとヤクルトは、それ以前から「ファミリー球団」として知られていた。これはヤクルト本社が経営権を握った1969年に就任した松園尚巳オーナーの下で培われた伝統でもある。チーム自体は低迷期が長く、1978年に前身の国鉄時代から数えて29年目にして初のセ・リーグ優勝、日本一に輝いた後もなかなか勝てず、1980年代は10年間でBクラス9回、うち4回が最下位という、いわば暗黒時代にあった。
その時代でもおよそ悲壮感のようなものはなく、どこかほのぼのとしたチームを温かく見守るファン、という構図もヤクルトならではだった。そうした伝統的な温かさに加え、「明るさ」がクローズアップされるようになったのは、1987年に関根潤三監督が就任してからだ。
「関根さんが選手に対して『思い切ってプレーしなさい』っていうスタイルだったからね。みんなのびのびやらせてもらって、それで自然と『元気に明るく』っていう感じになっていったんじゃないかな」
豪快なフルスイングで“ブンブン丸”の異名を取り、シュッとしたスタイルで女性人気も高かった池山は、当時をそう述懐している。既に還暦を過ぎ、好好爺然とした指揮官の下で若い選手たちはハツラツとプレーし、チームに根付いた明るいカラーは、1990年から野村克也監督に代わっても受け継がれていった。
「みんなが個性豊かで、みんなが良い意味でお祭り騒ぎ。そこで手綱を引っ張ったのが野村監督で、すごく難しい野球(ID野球)はやりましたけど、のびのびやらせていただいた」
野村監督の下で4度のリーグ優勝、3度の日本一となった1990年代の黄金期を、高津監督はそう振り返ったことがある。あの時代、傍目にもチームは勝つほどに明るく、楽しそうになっていくように見えた。
高津監督自身も、現役時代はマウンドでのクールな立ち振る舞いとは裏腹に、グラウンド外での陽気なキャラクターで人気を集めた。有名なのは、アフロヘアのカツラをかぶってクリスタルキングのヒット曲『大都会』を熱唱する姿だろう。優勝を決めた後のビールかけでもたびたびはっちゃけたところを見せるなど、その人気は某野球雑誌の人気投票ランキングで、3年以上も1位を独占したほどである。