2006年に第1次安倍晋三政権ができたものの結局、1年で退陣してしまった。そこで、自民党重鎮の青木幹雄や森喜朗に強引に口説かれて、首相になった。

(小泉政権から)日中関係が非常によくなかったので、僕は首相になった康夫に「『日中ジャーナリスト交流会議』をつくりたい」と話を持ちかけた。交流会議を政府として後押ししてくれるように頼んだんだ。

 すると、康夫は快く“オッケー”してくれた。当時、中国の駐日大使だった王毅と一緒に訪中し、中国側にも認めてもらった。両国に認められた交流会議は、日中のメディア関係者が活発に意見を交わし、どんなことでも自由に発言し合えるいい会となった。

 康夫は、日中の相互理解のためには、世論に影響力のあるメディア関係者が本音で語り合うことが大事だとの考えがあったのね。

◆構想力発揮の場最後までなく…

 それから、彼がやって大きかった功績の一つは、公文書を保存して公開することだった。でも、その後の安倍政権はこれをひっくり返してしまうわけね。菅義偉政権になって、公文書を保存して公開する動きに戻るよう働きかけたが、菅さんはやらないまま首相を辞めちゃった。

 安倍政権で臨んだ2007年の参院選で自民党が大敗し、衆参のねじれ現象が起きた。自民、公明両党の連立政権は衆院で過半数を占めていたものの、参院で過半数を失った。与党の国会運営が苦しくなった。

 そこで、このねじれを解消しようとした動きが起こる。(野党第1党だった)当時の民主党との連立を模索した、いわゆる「大連立構想」。民主党代表の小沢一郎が康夫にもちかけたとされた。康夫はこの大連立構想に乗ろうとしたが、結果的に頓挫してしまった。

 繰り返すけど、福田っていうのは野心のない男だからね。能力がないわけじゃないんだけど、政治の構想力を発揮する“場所”が首相時代、最後までなかったと思う。

福田達夫・自民党総務会長
福田達夫・自民党総務会長

 ところで、その息子の達夫は結構がんばっているね。今年秋にあった自民党総裁選をめぐっては、自民党の党改革を掲げて衆院当選3回以下の若手議員によるグループ「党風一新の会」をつくった。その代表世話人となって、注目された。

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