下重暁子・作家
下重暁子・作家
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 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「老人」について。

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 夕方、「ピンポーン」とマンション玄関のチャイムが鳴った。クロネコヤマトの宅配便である。部屋の入口に置くようお願いして、しばらくして取りに行った。私とつれあいそれぞれにぶ厚い本らしきものが届いている。何かのカタログらしい。

 そうか、今日は九月十九日の敬老の日。もともと十五日だったが、三連休にするために毎年移動するから、わかりにくい。

 かつては私の住む区では、民生委員が敬老の日に来て、ドアを開けると何も言わずに袋を差し出した。一万円であることを確かめ、九月十五日ならお祝い金であることに気がついた。

 私はずっと仕事を続けているから、老人の意識もなく、お祝い金をいただくことも知らなかったので、とっさに、これは区に寄付した方がいいと思い、その旨を伝えた。

 せっかく持って来たからには、喜ばれると思ったのに……と民生委員は明らかに不満顔だったが、丁重にお礼を言って持ち帰っていただいた。私の友人たちもほとんど仕事をしているから、私と同じ方法をとったらしい。

 元気で仕事を続けていられるだけで感謝なので。今年のように、クロネコヤマトの宅配便では、お持ち帰りいただくこともできない。

 一人一人の意向を確かめていたのでは、時間もかかるので、こうした方法をとらざるを得ないのはわかるのだが、皆同じに年寄りは全員十把一からげで扱われたのでは、とひがみたくもなる。

 敬老の日の前は「老人の日」「としよりの日」と呼び方も違った。いまは七十五歳以上が後期高齢者だと区切られる。人生百年の時代。七十五歳から人生を生き直すことだってできる。

 私は実年齢八十六歳らしいのだが、そんな意識もないし、これからまだまだやらねばならぬ仕事がある。というより、まだやりたいことの1/10もやっていない。この先何を始めるか、自分の体と相談しながらゆるゆると必ずやりとげる。

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