かつての郡の名前や区割りは、必ずしも、今の郡にそのまま当てはまるわけではないものの、日本という国家ができあがった初期の段階から長い歴史を持つ、由緒のあるものだ。
その後、郡は荘園の発達とともに、平安時代中ごろには行政区画として機能しなくなっていったと言われるが、近代に入ってからも郡が大きな力を持っていた時期がある。「郡制」と呼ぶ地方自治の制度があった明治時代半ばから大正時代半ばまで だ。
『近代日本の地方行政と郡制』の著者で、皇学館大学准教授の谷口裕信さんは、次のように解説する。
「当時は基礎自治体である市町村の規模は今に比べると極めて小さく、単独でできる行政サービスにも限りがありました。そこで府県と市町村の間に郡を置き、学校や道路、堤防といった、単独ではできない行政サービスを手がける役割が任されました。その機能や業績は地域によって差がみられますが、郡には議会も置かれ、町村の代表者らからなる議員もいましたし、役所が入る立派な庁舎が建てられたところもあります」
例えば山形県東田川郡。郡が主導して水力発電所までつくったことがある。 発電した電力は郡内の住民だけでなく、産業が盛んだった鶴岡市にも届けられた。旧・東田川郡役所が置かれた庁舎や洋風の郡会議事堂は今でも鶴岡市内に残り、県指定有形文化財にも指定されている。
「当時、鬼県令』と呼ばれた三島通庸が、明治政府の威光を示すためもあって立派な庁舎を建てさせたと言わ れています。コロナで少し減ってしまいましたが、コロナ以前は県内外から年1万人が見学に訪れていました」(鶴岡市から建物の運営を委託されている藤島文化スポーツ事業団)
前出の谷口さんによれば、当時は全国に500を超える郡があった。山形や福島、福岡といった県では、とくに目立った業績を残した郡が多い印象だという。
ただ、その“栄華”も長くは続かなかった。谷口さんは続ける。