ヘッドハンターは、心が弱っているときにやってくる

 これから海外に行って何年務めることができるか不安があったし、体力的、精神的な限界もあるだろう。急な病気・事故などに遭うこともあるかもしれない。将来貰えるであろう日本での退職金や厚生年金が激減することも容易に計算できた。また、サムスンを退職した後で日本の会社で再就職できるのかという不安もあった。それに、一部には「韓国企業に引き抜かれて転職した人は裏切り者だ」という極端な考え方の人がいることも知っている。

 そんな後ろ向きなことばかり色々と考えていると、数日後には3度目の面談を要請された。今度は高級料亭で、しかも先方の役員クラスがわざわざ韓国から出張してきて説得するというではないか。

 私は当時40代になったばかり。国内の会社ではふるいに掛けられ、これ以上役職としては上がれそうもなかった。しかし逆に言えば、日本企業に勤め続ければ法律に守られている。あくせく必死に働かずとも、適当に優先度の低い実験をしながら定年まで勤め上げれば、安定した生活を送ることもできる。実際、そういう人間は研究所には多くいた。

 そう思っていたはずなのだが、面談を進めていくうちに気持ちが変わってきた。そんなぼんやりとした人生を送るよりも、研究者として世界的大企業に求められて働くほうが、断然刺激的な気がしてきたのだ。3回目の面談の最後には、「これから自分は世界で戦うんだ」という、一種の使命感のようなものまで感じるようになっていたのをよく覚えている。

 ヘッドハンティングは、新興宗教の勧誘に近いものがあるのかもしれない。心が弱っているときにやってきて、それまでの自分の考え方をがらりと変えてしまう。

 そうこうしているうち、気が付くとソウル行きの航空券と高級ホテルが用意されていた。週末を利用した韓国ツアーだ。韓国に着くと、設備見学や担当役員、上長予定の人との面談が待っていた。細かい契約を文書化して締結し、初めて電話を受けてから3カ月後には、人生初の退職届を出していた。

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