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 ドイツ文学者・松永美穂さんが評する「今週の一冊」。今回は『彼女はマリウポリからやってきた』(ナターシャ・ヴォーディン著、川東雅樹訳、白水社 3080円・税込み)。

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 昨年春以降、何度も「マリウポリ」という地名を耳にしたこともあり、どうしてもこの本を読んでみたくなった。すでにタイトルが、さまざまな想像をかき立てる。

 ただ、ロシア系ドイツ語作家のヴォーディンが執筆したこの自伝的小説は、ウクライナへの軍事侵攻が始まる以前に執筆されたものだ。2017年に出版され、いくつもの賞を受賞した。本書は想像をはるかに超えるスケールで、ここ百年のマリウポリの歴史や、ロシアとウクライナの関係を解き明かす。そして、革命や世界大戦がもたらした混乱と惨状に翻弄された民衆の姿を伝えると同時に、一人の女性が生きた軌跡を鮮やかに描き出す。暗い時代を突き抜けて、人が生きた確かな証が、家族の写真や娘の思いと共に届けられる。読んでいるうちに、じわじわと胸が熱くなった。

 すべては、作中の「わたし」がインターネットで母の名前を検索するところから始まる。60年前に自殺した母の来歴を、当時まだ少女だった「わたし」はほとんど知らない。記憶しているのは、マリウポリ出身だったこと、戦争中にドイツに来て強制労働者として工場で働いていたこと、戦後も故郷には戻らずドイツで貧しい暮らしをしたこと、歌が好きだったこと……。しかし、検索が1件だけヒットしたことで、少しずつ母の実家の様子や兄姉の歩みがわかってくる。いないと思っていた親戚との交流が生まれる。このあたりは実にドラマチックだ。やがて、母だけでなく、親族の人々の、数奇な人生が少しずつ再現されていく。

 36歳で命を絶った母。彼女の生年は1920年で、生まれたのはロシア革命が引き起こした内戦と無秩序が支配していたときだったとわかる。マリウポリは革命や戦争で、壊滅的な被害をこうむったのだった。

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