劇団ひとりが照明を操っていたずらをするこの場面は、東京五輪の開会式でも見られたものだ。つまり、これは明らかに五輪開会式のパロディである。さらに、そこから待望論が出ていたマツケンサンバへとつなぐことで、「あるはずだったもう1つの開会式」の光景を浮かび上がらせてみせたのだ。批評性に満ちていて、なかなか気の利いたパロディ演出だった。

 人々がインターネットを通して容易につながり、他人の意見がダイレクトに届くようになったこの時代には、誰もが批判を恐れて縮こまりながら生きている。

 マツケンサンバは批判を恐れない。そもそも歌詞も音楽もビジュアルも、多種多様なジャンルの「全部のせ」状態で、まともな批評が初めから通用しない境地に達している。

 マヂカルラブリーの漫才を「こんなのは漫才じゃない」と言う人はいても、マツケンサンバに「これはサンバではない」とまともに反論する人はいない。マツケンサンバは人から批判する気力を奪ってしまう。ひたすら明るく、楽しく、バカバカしいだけの音楽である。

 でも、ちょんまげ姿の「上様」が踊るという一点だけでかろうじて日本っぽさが保たれている。文化的闇鍋のようなごった煮状態の中に薄皮一枚だけの和風趣味を忍ばせている。実は、多くの日本人が誇りに思い、多くの外国人がイメージしている日本らしさというのは、本来そのようなものではないか。

 正月には神社に行き、ハロウィンでは仮装をして、クリスマスにはケーキを食べる。そんな節操のない日本人は、宗教や思想を経由せずに「楽しければ何でもいい」という感覚を自然に受け入れている「ごった煮文化」の体現者である。

 そこまで考えると、あのとき日本人がマツケンサンバを日本代表として開会式に送り出したかった気持ちがわかってくる。「KAWAII」や「MOTTAINAI」のように、私たちは「MATSUKEN SAMBA」を世界に広めたかった。日本はマツケンサンバであり、マツケンサンバが日本だ。マツケンの「オレ!」のかけ声は世界中の人々の荒んだ心を癒やしてくれるはずだ。(お笑い評論家・ラリー遠田)

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