山本さんが戦争や平和について考えるようになったのは、小学生のころだったという。

「テレビのドキュメンタリー番組で第2次大戦の悲惨な映像を見て、『絶対にダメだ』と思ったのがきっかけですね。父親が上智大学在学中に学徒出陣してまして、結核を患ったため除隊になったのですが、大勢の友人たちが戦地で亡くなり、帰って来られなかった。さぞかし無念だったと思います。ただ、父は『(あんな時代だったから)仕方ない』とも言うんですよ。それを聞いて子ども心に『大きな危機を迎える前にその芽を摘み取るような、仕方がある生き方をしよう』と思いましたね」

 社会問題への視点は、10代の多感な時期に学生運動やベトナム反戦運動などの洗礼を受けたことによって育まれたことは想像に難くない。それでいながら、持ち前の朗らかな人柄からだろう、レパートリーは「走れコータロー」のセリフパートで当時話題になっていた公営ギャンブルをパロディーにしたり、セカンドシングル「ハナゲの唄」で大気汚染を揶揄(やゆ)するなど、コミカルな歌詞の中にもチクリと「ひと刺し」入れるのが特徴だった。

 その後、約2年間の米国生活を経て、帰国後に芸能活動を再開。歌手とともにタレントとしても活躍した。

 そんな多忙のなか、86年にスタートさせたのが『広島ピースコンサート』だった。

 当時を知る広島県の元地元紙記者はこう言う。

「84年に“エチオピア飢餓救済”を目的にしたチャリティーコンサート『ライブ・エイド』がポール・マッカートニーやクイーン、ミック・ジャガーらが参加して英国と米国で開催され大成功しました。次いで85年に“アフリカ飢餓救済”のため『USAフォー・アフリカ』が立ち上がり、マイケル・ジャクソン、スティービー・ワンダー、シンディ・ローパーらが歌った『ウィー・アー・ザ・ワールド』がメガヒット。その日本版を山本さん、南こうせつさんらで企画したのです」

「国際環境技術フォーラム」で話す山本コウタローさん(1997年12月6日)
「国際環境技術フォーラム」で話す山本コウタローさん(1997年12月6日)
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