三番町停留所を後に閑静な青葉通りを走る10系統須田町行きの都電。次の九段上までは1930年に敷設された番町線の新線区間を走る。 三番町~九段上 (撮影/諸河久:1963年7月6日)
三番町停留所を後に閑静な青葉通りを走る10系統須田町行きの都電。次の九段上までは1930年に敷設された番町線の新線区間を走る。 三番町~九段上 (撮影/諸河久:1963年7月6日)

 番町線は九段線と半蔵門線を結ぶ1200mの短絡路線で、九段上停留所から三番町停留所にかけて上りの「九段富士見坂」と下りの「裏三番町坂」、三番町停留所から半蔵門停留所にかけて下りの「表三番町坂」と上りの「青葉切通坂」が続き、起伏の激しい路線だった。  

 次のカットは九段上から最急36パーミルの九段富士見坂を上る10系統渋谷駅前行きの都電。青葉通りの両脇には見事な桜並木が連なっているが、翌年の満開時に都電の姿は消えていた。画面右側の建物が1877年10月に開校した二松学舎大学の旧校舎だ。

1905年の開業から1930年まで旧線を走った番町線

 九段上と半蔵門の中間に位置するのが写真の三番町停留所だ。画面右奥が九段上方向で、三番町停留所を発車して最急40パーミルの裏三番町坂に挑む10系統須田町行きの都電が写っている。三番町界隈は隣接する九段上や半蔵門の雑踏と比べると交通量が少ない閑静な街で、画面左端に昭和の佇まいを見せる「三番町ホテル」は1970年代まで盛業していた。

 余談であるが、江戸に限らず、仙台、岡山、松山などの城下町には「番町」という地名がある。番町は城下のお膝元に位置して、大番組の宅地が置かれていたところで、城郭防衛の最重要地帯であった。江戸城の場合は一番組から六番組まで置かれていたので、一番町から六番町までの地名となった。

 ところで、1905年番町線開業時の三番町停留所は五番町を名乗っていた(改称は1933年)。当時の番町線は、この画面手前を右手に折れ、名勝「千鳥ヶ淵」に沿った街路を北上して富士見町停留所に至る旧線を使用していた。

東京鉄道会社の「東京市内電車案内図」は1907年3月の発行で、九段坂下~富士見町の九段坂の区間は点線で表示された開業予定線になっている。(所蔵/諸河久)
東京鉄道会社の「東京市内電車案内図」は1907年3月の発行で、九段坂下~富士見町の九段坂の区間は点線で表示された開業予定線になっている。(所蔵/諸河久)

 掲載の路線図は「東京市内電車案内図」からの抜粋で、五番町から右に折れて千鳥ヶ淵畔を回って富士見町に至る旧路線が判読できる。この路線図が東京鉄道会社から発行されたのは1907年3月で、九段線の九段坂下(1930年に九段下に改称)と富士見町は開業予定線になっていた。九段坂の急勾配で電車が登坂できず、内濠側に勾配緩和線を構築し、開業に漕ぎ着けたのは1907年7月だった。

 最後の写真は番町旧線も接続していた九段線の九段坂勾配緩和区間を走る路面電車の絵葉書で、関田克孝氏のコレクションを拝借した。開業当初の九段坂の専用軌道と路面電車が鮮明に記録されている貴重な資料だ。

開業当初の九段坂を走る東京鉄道会社の路面電車。絵葉書のタイトルは「九段新道ノ電車」になっている。(所蔵/関田克孝)
開業当初の九段坂を走る東京鉄道会社の路面電車。絵葉書のタイトルは「九段新道ノ電車」になっている。(所蔵/関田克孝)

 九段坂を上るのは東京鉄道会社の251型600号で、東京市街鉄道(街鉄)の旧1型でヨシ(ヨ=四輪単車/シ=街鉄引継車)と呼ばれていた。1903年から1906年にかけて499両が量産された全長7.576m、定員40名(座席定員16名)の木造四輪単車。車体は日本車輛他三社による国産で、台車は米国製ペックハム8B型を使用。

 この絵葉書を観察すると、方向幕に右書きで「志んじく」と掲示されている。当時の新宿行きは九段坂を上った富士見町(1908年頃に九段上に改称)を左折して番町線に入り、半蔵門を右折して新宿に向かっていた。画面左側には田安門に通じる土塁と新たに架橋された跨線橋が写っている。

 1923年に起こった関東大震災後の復興道路工事で、靖国通りが拡幅・勾配緩和されることとなり、1930年4月に九段下~九段上の勾配緩和専用軌道が九段坂の道路上に移設された。同時に九段線と接続する番町旧線も九段上から五番町に向かう新線に切替えられ、千鳥ヶ淵畔の旧ルートは廃止された。ちなみに、新線に移行しても九段坂の最急勾配は60.6パーミルの特別坂路に数えられる難所だった。

■撮影:1963年7月6日

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