そこで、竹下が選んだ藤波孝生、森喜朗、加藤紘一、小渕恵三、羽田孜の5人を集めて、僕と新聞社・通信社の幹部、官僚らも参加して月1回、会食しながら懇談した。
その会は、あえて青臭く、青っぽくやろうということになった。それで「青の会」と名付けられた。政界にいると腹黒く、黒っぽくなっちゃうからね。
この手の会合をやると、食事代を政治家が出したがる。だから、みんながそれぞれ金を出した。もしかしたら、日本で初めての会費制の、政治家を囲む会だったかもしれない。
実際、竹下はあんまり会には出てこなかった。出てきても彼はね、「こうすべきだ」などとは言わない。みんなの意見を聞くのがうまかった。今の岸田文雄首相に似ている。聞き役に徹していたね。
青の会から後に首相も誕生したけど、藤波がリクルート事件で失脚しちゃうのね。加藤も“加藤の乱”を起こすなどして、道半ばで首相になれなかった。
それにしても、竹下の退陣後に首相となった宇野宗佑、海部俊樹は、完全に“中継ぎ”内閣だった。竹下が内閣に強い影響力を持ち続けた。
宇野首相は女性問題でわずか2カ月余りで失脚した。本人は首相になるなんて思っていなかったから。
宇野は滋賀県出身で同郷。首相になる前に会ったけど、素直な人だった。
あんまり言いたくないけど、滋賀の話だと実は僕ね、武村正義知事が国政に転身する際、彼から「田原さん、あと(知事)やってくれないか」と打診された。僕は「絶対にジャーナリスト以外はやらない」と断った。武村さんはいい知事だったけどね。こんな話、ほかでしたことない。
宇野の後を継いだ海部首相の時、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が起きた。冷戦が終わっていたので米国もソ連(現ロシア)も参戦、NATO(北大西洋条約機構)による多国籍軍が協力した。この時に日本は金を出しただけで、自衛隊は全く協力しなかった。このことが世界中から批判されて、やっぱり日本も「人的協力」が必要だとの声が出た。
海部内閣は完全に、竹下の“操り人形”と見られていた。だから自民党内から海部をつぶそうという声が上がってくる。この動きの中心はいわゆる「YKK」ね、山崎拓、加藤、小泉純一郎ね。彼らが僕のテレビ番組なんかに出てきて、海部をこてんぱんに批判した。党内で時の首相を大批判、罵倒できる。そういう意味で、自民党は自由で民主的な党でもあった。だから長続きしたんだね。