首相にズバッと切り込んできたジャーナリスト、田原総一朗氏。週刊朝日100周年の記念企画として田中角栄氏以降、秘話を交えて振り返り、“独断”と“偏見”で歴代首相を採点してもらう。「宰相の『通信簿』」第五回は、竹下登氏。“鉄の結束”を誇った田中角栄派から飛び出し、派閥を旗揚げした。苦悩と葛藤に満ちた首相の素顔とは。(一部敬称略)
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ロッキード事件後も“闇将軍”として実権を握っていた田中角栄が、大きなダメージを受けたのが、竹下登による“反乱”だった。
なぜか。角栄が自民党のドンとして力をふるうため、党内最大派閥である田中派からはあえて総裁候補を出さない状況が続いていた。田中派はドンがいる限り、総理大臣が出ない。それで、派内の実力者だった金丸信と小沢一郎が、やっぱり田中派からも総理大臣を出せるようにしたい、と動き出した。1985年、竹下を担いで派内の勉強会「創政会」をつくるわけだ。
まさに角栄にとっては、反乱。竹下が創政会をつくった後、東京・目白の角栄邸を訪れたものの、なかなか会ってもらえなかった。そのうち角栄が脳梗塞(のうこうそく)で倒れてしまう。結局、満足なやりとりができないまま、角栄は亡くなってしまった。創政会が角栄を倒したんですね。竹下はこのことを「残念無念」だと言っていた。
それにしても、僕が「何でまた角栄に反乱する気になったのか」と尋ねると、竹下は「反乱ではない」と答えた。そして、こう説明したんだ。
「反乱じゃなくてね、金丸と小沢から『総理大臣をやらなければ、政治家を辞めろ』って言われたから、政治家を辞めないためにやったの。言われたから、(政治家としての)命をかける」と。
「そもそも何で、創政会という名前なのか」とも聞いた。すると「だって、総理大臣をやらなければ政治家を辞めろとか、ああせい、こうせいってみんなが言うから“そうせいかい”なんだ」と語っていた。