芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、絵を描く行為について。
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嵐山光三郎さん、早速、諦念小説家(?)の森鴎外、井伏鱒二の二人の「寒山拾得」について、くつろいだ夜話をしていただきました。僕が寒山拾得を知ったのは蕭白(しょうはく)、蕪村、友松(ゆうしょう)、等伯(とうはく)、玉堂(ぎょくどう)、山雪、大雅(たいが)、蘆雪(ろせつ)などの江戸の巨匠の水墨画からです。小説はほとんど読まないので鴎外の「寒山拾得」はずっと後に知りました。超俗の怪醜人物でその無気味さは常軌を逸していますが、そんな変なところに惹かれました。その理由はよくわからないんですが、怖い物見たさでしょうか。アカデミズムとかモダニズムとかを飛び越えたアンタッチャブルの世界です。
絵の世界では寒山拾得のモチーフは水墨画の世界の定番で、珍しくもなんともないんですが、文学の世界では森鴎外ひとり占めで、その後、井伏鱒二が書きますが、井伏は知識不足なのか寒山拾得の二人のキャラクターを取り違えています。こんなデタラメが文学では通用するんですかね。まあ寒山拾得はもともと、ひとりだとか二人だとか実に曖昧ですが、井伏みたいにどっちだっていいのかも知れません。第一、実在の人物かどうかさえ不明ですから。二人の人物の風貌は長髪ボサボサ浮浪者さながら、脱俗隠者、一卵性双生児、顔の区別もつかないが「寒山詩集」の編者・閭丘胤の序では厳密に二人のキャラは区別されて、寒山は手に巻物、拾得は箒(ほうき)ということになっていますが、意外と井伏のデタラメさが本質だったりして。寒山拾得は虚像で、もしかしたら「理念」かも知れませんよ。
まあ、どっちにころんだって僕にはさほど関係ないことで、僕の絵のモチーフとしての寒山拾得は井伏以上にデタラメです。僕は寒山は持ち物の巻物をトイレットペーパーに、拾得の箒は電気掃除機に変えて、そこに文明を持ち込み、中国の文化大革命に一石を投じ(笑)、はたまた、二人に駅伝走者を演じさせたり、トリックスターさながらハチャメチャに縦横無尽に現代を掻き乱しています。僕の絵の中での寒山拾得は、中国の唐の時代から現代の日本にタイムスリップして、あの唐の時代の寒山拾得ではなく、僕の中に棲みついた多様な多国籍寒山拾得に変装させてしまいました。
寒山拾得の資料がほとんどないだけに、どうでも解釈できます。そしてありとあらゆる側面で自由に暴れまくります。究極の自由とはカテゴライズ不可能な超人思想です。鴎外にちょっとぶら下った井伏の寒山拾得の他に、夏目漱石だったか、芥川龍之介だったか内田百けん(もんがまえに月)だったかの小説にも、ほんと一秒か二秒、寒山拾得が、飯田橋界隈で見掛けたといって、チラッと登場します。現実の裂け目からヒョイと顔を出すのに丁度いいのが寒山拾得なんですかね。(あッ? 「芥川ですか」。鮎川さんのシン・情報です)