そのような「女権拡張」の運動では当然、「あたりまえ」に恩恵を受けている人たちの利益を侵害することもあるだろう。例えば、最近のことでいえば「温泉むすめ」や千葉県警の交通安全PR動画などだ。女性の身体的特徴を過剰にデフォルメしたセクシーな二次元の表象物に「元気づけられる」人々もこの社会には一定層いるが、一方でその表象に身の危険や心理的恐怖を感じる人もいる。そういう表現物が公的な場所で表象されることや、公的な資金が投入されることに疑問を感じるフェミニストたちの声があがるたびに、SNSやメディアでフェミニストたちの声は「保守的で倫理的で時代錯誤の過剰な反応」として嘲笑されてきた。

 もちろんこういったことは日本だけの現象ではない。例えば、アメリカでは、ゲームの中での性差別表現について声をあげたフェミニストが、人生を破壊されるまで攻撃されるような事件が起きている。韓国でもポルノサイトを批判する女性たちが、逆に名誉毀損で訴えられるようなことはいくらでもある。圧倒的に男性目線で仕立てられた社会のなかで、少しでも「あたりまえ」を変えようとする女性たちの闘いは、いつの時代も、どの社会も、どんな地域でも命がけだと思う。

 そういうなかで、今の日本のフェミ的な問題は、「女性が差別されている」という事実すら、女性たちが遠慮がちに言っていることかもしれない。「女性だけが差別されているわけではないですが……」「男性と恋愛する女性なので私はマジョリティー側ですが……」と、全方向に配慮しながら遠慮がちに自らの被差別体験を声に出すという、加害者の存在をあぶり出すことのない「ちょうどいいフェミニズム」が求められていることだ。

 そういう意味で、三省堂の定義は、多くの人にとって邪魔にならない、違和感のない、フェミニストにとっても“社会に受け入れてもらいやすくなる”ちょうどいいフェミニズムなのだろう。そう思いたい、そう思ってほしいのはいったい誰の欲望なのかは、分からないけれど。

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性暴力は「テロ行為」と定義