日本政府はこの通報について検討した。北朝鮮はこの2人の生存情報を最後に拉致問題の完全解決を求めていた。日本側は、2人の生存だけでは世論が納得しないと判断し、北朝鮮との交渉は難航した。日本側は、これだけで再調査を終了させず、引き続き調査を行う余地を残すよう交渉したが、最終的に決裂したという。日朝間の信頼関係が傷ついたため、再び交渉しようという機運が盛り上がらない。
また、前述した通り、正恩氏は「弱い独裁者」であるため、日本人拉致被害者の情報全てを把握していない可能性がある。すでに金正日(キムジョンイル)総書記が02年の日朝首脳会談で拉致行為について「特殊機関の一部の妄動主義者らが、英雄主義に走った」と位置づけている。北朝鮮当局は当然、拉致被害者の状況を把握しているだろうが、処罰を恐れるなどして真実を隠蔽(いんぺい)している状況が考えられる。
こうした状況を考えると、いきなり岸田文雄首相が金正恩氏と会談しても何も解決しないだろう。02年の日朝首脳会談が成功したのも、事前に水面下での入念な秘密交渉の積み上げがあったからだ。現在、日朝関係は断絶状態にあり、日本政府は北朝鮮の状況を全く把握できずにいる。
「拉致被害者が何人生存しているのか」「正恩氏はどこまで事実を把握しているのか」などの情報を探る必要がある。そのためには、連絡事務所でも何でも、北朝鮮に情報収集の拠点を作る必要がある。14年の日朝ストックホルム合意に立ち返り、回り道のように見えても、北朝鮮が提起した日本人遺骨の収集や日本人妻の一時帰国問題などを次々に片付け、北朝鮮が拉致問題で対応せざるを得なくなる状況をつくり出すべきだろう。
米朝関係は緊張に向かわざるを得ないが、日本政府なら、それができるはずだ。北朝鮮が決して表に出さない「赤い貴族」と交渉した経験があるからだ。(朝日新聞記者・牧野愛博)
※AERA 2022年1月31日号より抜粋