※写真はイメージです(gettyimages)
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 一国一城の主・大名。家臣、領民からは雲の上の存在だったお殿様たちは、どのような生活を営んでいたのか。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』では、江戸三百藩の暮らしと仕事を解説。ここでは、側室&懐事情を覗いてみよう。

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【正室・側室、懐事情】側室は多数? 暮らしは贅沢?

 どの大名も、正室と世継ぎの嫡男は江戸屋敷に定住させることが幕府から義務付けられていた。幕府への叛逆を防ぐための人質だったが、側室は対象外であるため国元に住まわせる事例が多かった。江戸屋敷に住まわせる場合は正室の管理下に置かれることになっていた。

 世継ぎが生まれなければ御家断絶になる以上、側室を持つことは珍しくなかったが、それゆえ子沢山となる大名も出てくるのは藩にとり痛し痒しであった。その分生活費が増えて、藩財政にも深刻な影響をもたらすからである。

 どの藩も時代が下るにつれて財政難に苦しむようになるため、藩政改革の名のもと歳出カットが断行されるが、聖域化されていたのが奥向費用だった。大名が自分や家族のために使える生活費のことであり、藩の歳出の1割ぐらいを占めるのが普通だったようだ。明治に入って、政府は各藩に歳出の1割を藩主の家禄つまり生活費と定めたが、そんな実態を踏まえた規定だったことは明らかである。

 ただし、聖域化されていたとはいえ、藩主が決断すれば倹約の名のもと切り詰めることは可能だった。絹ではなく木綿とすることで衣装代はカットできた。大名が範を垂れたわけだが、藩士の俸禄カットも抱き合わせだった。藩士の不満を抑える意図も秘められていたのである。

【寿命・御家断絶】幕府の許可と継嗣が必須だった家督相続

 江戸時代は泰平の世であり、いきおい高齢化の傾向が顕著だったが、乳幼児の死亡率が非常に高かったため平均寿命は30~40歳代となる計算だった。大名もその傾向からは逃れられなかったが、壮年ともなれば長寿を保つ可能性が高かった。

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参勤交代を守らない大名は…