
恩師とけんか腰で議論
実際に入社すると「すごい先輩」がゴロゴロいた。猛者たちが丁々発止を繰り広げる職場で、ビジネスの基本をたたき込まれた。エネルギー事業に関心があった豊田は志願して太陽光発電事業の投資を担当した。だが証券会社の仕事は投資まで。「もっと事業に近いところで仕事がしたい」と考え、インテグラルに移る。その際、創業メンバーの佐山展生に声をかけられた。
「君、まだ僕が帝人にいたときの年だろ。これからなんでもできるよ」
インテグラルは民事再生法の適用を申請した航空会社スカイマークに出資していた。会長として乗り込んだ佐山は、従業員2千人の会社を見事に再建した。
生き馬の目を抜く金融の世界を無我夢中で走りながら、それでも豊田は恩師・阿部との連絡を絶やさなかった。ビジネスの経験を蓄えながらその時を待っていた。そして迎えた17年。
「豊田くん、いよいよ始めることにしたよ」
白いものが目立つようになっていた頭を黒く染めた阿部が、起業の決意を伝えてきた。経営の経験がない彼は、事業計画を立てる段階から豊田に相談した。
「先生、それじゃマネタイズできませんよ」
「そうかなあ。僕はいけると思うんだけど」
週末になると朝から晩までホワイトボードにアイデアを書き込み、けんか腰で議論した。休む間もない日々が続いたが、2人には「プロジェクトが成功すれば間違いなく日本が一歩前に進む」という高揚感があった。
阿部の構想に共感して創設メンバーになったのが、鹿島建設でハワイの土地開発などを経験した越村吉隆と、ソニーでソネットエンタテインメントの立ち上げに携わった中村公彦だった。その後、阿部研究室で豊田の後輩だった近清拓馬が加わった。
沈みゆく船の船長に
近清はコンサルタント会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーに勤めていたが、エネルギー事業への思いが断ち切れず、豊田の誘いに乗ってきた。阿部と越村、中村は60代。真ん中の40~50代がいない不思議な集団だ。豊田は、阿部のアイデアと経営に関する自分の知見があれば、うまくいくと考えていた。
だが、現実は甘くなかった。