宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がサハリン鉄道(当時の樺太鉄道)に着想を得て書かれたことは有名だけれど、実際にサハリン鉄道を訪ね、冷たい灰色の空を見上げた時に感じた郷愁のようなものは、他のどの国を旅しても味わうことのない感覚だった。宮沢賢治もロシア文学に傾倒していた。賢治の「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」など、日本の子どもたちが最初に出会う身近な「西」には、ロシアの空気が入っていたのかもしれないと、気づかされた。
ウクライナの人々が地下鉄駅に避難している映像を見て、構内のシャンデリアの荘厳さんに目を引かれた。ソ連時代に、シェルターとしての機能を兼ねてつくられた地下鉄なのだろう。モスクワの地下鉄構内ととても似ていた。巨大なシャンデリアが天井からつるされ、戦車数台が通るのではないかと思うほどホーム自体が大きく、彫刻や絵画などが優雅に展示されているスペースだ。公共の場ですらギラギラとした広告に見慣れている日本からの観光客としては、美術館のように美しく静謐な場所に見えたのを覚えている。そのような場所に今、ウクライナの人々が閉じ込められるように眠れぬ夜を過ごしている。報道される人々の顔は日に日に焦燥しきっていく。休まらぬ緊張のなかで、泣き続ける声があちこちから聞こえてくるようだ。
私が生まれてからずっと、この世界は冷戦の最中だった。核戦争の恐怖は決して無縁なものではなく、ソ連とアメリカのおじいさんたちがこの世界を終わらせるボタンを握っているというイメージを、あの時代の子どもは持っていたはずだ。私の叔母は当時アメリカに暮らしていたが、1983年9月1日、日本に帰国する途中、乗っていたニューヨーク発ソウル行きの大韓航空機がソ連軍の戦闘機に撃墜されて亡くなった。乗客全員が一瞬で殺され、遺体は戻ってこなかった。冷戦の犠牲だった。
ベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊し、それが正しいとか正しくないとか考える間もなく、「民主主義」と「資本主義」が勝った冷戦後の世界で生きているつもりでいたが、そんな簡単な話ではなかったのだということを、今、時計の針が巻き戻されるように感じている。巨大な国の暴挙も、核兵器の恐怖も、本当には消えていなかった。