■マンネルヘイム元帥が見極めた和平交渉のタイミング
1939年9月にドイツ軍が行ったポーランド侵攻も、ヒトラーの領土割譲要求(ドイツ本国と飛び地を結ぶ交通路の使用権)をポーランドが拒絶したことが発端でした。ポーランドの場合、西の大国ドイツと東の大国ソ連が、ポーランドを「邪魔者」と見なしたことで両側から挟み撃ちに遭い、イギリスが助けることもできないまま敗北しました。
1940年4月に始まったドイツ軍のノルウェー侵攻は、中立を望んでいたノルウェーの領海が、ドイツの鉄鉱石の輸入ルート(中立国スウェーデン北部で産出)になっていたことからイギリスのチャーチルが派兵を計画し、それを察知したヒトラーが先手を打って攻め込んだという図式でした。ノルウェーから見れば、「ドイツとイギリスがケンカするならよそでやってくれ」という迷惑な話でしたが、ドイツは自国からノルウェーへと部隊を送る「通り道」に位置するデンマークにも「ついで」のように侵攻しました。
ドイツ軍やイタリア軍の侵略を受けた周辺国の多くは、第二次大戦の後半に連合国の大国(アメリカ、イギリス、ソ連)によって「解放」されましたが、先に挙げたフィンランドの場合、交渉によって自力で問題を解決することを強いられました。
ソフィン戦争の序盤にぶざまな敗北を喫したソ連軍は、作戦を一時停止して態勢を立て直し、部隊の指揮官をより有能な者と交代させ、要塞攻略用の強力な重戦車を投入するなどして、1940年2月に大攻勢を再開しました。フィンランド軍の司令官マンネルヘイム元帥は、今回は長く持ちこたえるのは困難だと認識し、政府に和平を進言しました。
「和平交渉というものは、戦える戦力がまだ残っているうちに行ってこそ意味がある。全ての戦力を失ってからでは、もう遅い。その時には、相手に対する全面的な屈服しか道は残されていないからだ」
1940年3月、フィンランドのカリオ大統領がモスクワで和平条約の文書に署名し、フィンランドは領土のソ連への一部割譲と引き換えに、全面的な屈服を免れました。許容範囲内の譲歩で和平交渉がまとまった背景には、マンネルヘイム元帥が進言した「和平交渉は戦力が残っているうちに行うことに意味がある」という見識があったからでしょう。今のウクライナにも、この教訓は生かせるのではないでしょうか。
現在のロシア・ウクライナ戦争では、ロシアのプーチン大統領が強硬な姿勢をとっているため、和平交渉は大きな壁に直面しているように見えます。このまま戦争が長引けば、物理的にはウクライナが不利ですが、国際社会ではロシアに対する激しい批判とボイコットの動きが広がっており、ロシアにとっても損失はさらに大きくなるはずです。
アメリカやNATO加盟国、トルコなどの周辺国が何らかの形で和平交渉に加われば、双方が合意できる条件が見つかるかもしれません。一日も早く停戦が成立し、多くの市民から命や暮らしを奪い取る戦争が終息することを祈ります。(山崎雅弘)