芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、絵の見方について。
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絵の見方ですか? どう見ればいいのか? 今週の担編さんの疑問です。ただぼんやり見るだけではダメなんでしょうか。何か難しい言葉が必要なんでしょうか? 自信ないですね。
もう面倒臭いから結論から言っちゃいます。そんなものはないです。絵の見方なんて本があるから、大方の人は悩むのです。絵は小説や音楽のように理解する時間など必要としません。パッと見る、それでいいのです。一秒でも一時間かけて見たければそれでいいのです。でもわからなかったと思えば、わからなかったということがわかったのです。それじゃ納得できませんか?
絵なんてわかる、わからないで判断するものではないのです。林檎を食べて、その味を説明したいですか。林檎も絵も同じです。説明などできないでしょう。感覚は言葉を越えています。絵は感覚の産物です。だから、わかる、わからないの問題を頭から消して下さい。先ず、わかろうとすることが、間違っているのです。最初から答えのないものに答えを求めることは禅の公案を頭で考えるようなものです。答えのないものに答えを求めて何が得られるのですか。
僕は絵を描きます。何のために? そんな大義名分の目的などありません。強いていえば、自分というか人間が謎の存在だから、目的のない絵を描くだけの話です。そして、やっぱり自分は謎の存在だったということを知る。それで充分です。絵を描く理由はこの程度のものです。そうして描かれた絵の見方が、わからない、当然です。わかる、わからないを基準にして絵など見るとヘトヘトに疲れます。洋服の胸襟を開くように、感覚で対峙して下さい。
だけどですね、現代美術はそのわからないをわからそうとした作風で美術界と対峙しています。コンセプチュアル(観念)アートというのがそれです。感覚に訴えるというよりは知がその作品の根拠になっています。僕の作品はコンセプチュアルというより、感覚的に描きたいものを手当たり次第に主題も様式もへったくれもなく、衝動を優先して、アスリートのように、スピーディに描きます。つまり脳の作用を関与させない、感じたままを描きます。わかる、わからない以前の問題です。